過去と未来の消失点

ドリーム小説ドリーム小説

 ある日、務武からイギリスを出て日本に行くようにメッセージが送られてきた。メアリーはすぐに緊急性を察知し、息子達に準備をするように言う。このようなことは初めてで、メアリーの様子から考えても猶予はないのだと分かった。
 秀一は不安そうにしている弟に言い聞かせながら、あまり進んでいない荷造りを手伝う。
「……明日友達にお別れを言ってからじゃ駄目なのかな」
「秀吉、手を動かすんだ。お前の大切な将棋も全て置いていって良いのなら別だが」
「わ、分かったよ」
 秀吉は慌てて手に持っていた将棋の本を荷物に加えていく。それを見つめる秀一も、何も思い残すことがないわけではない。準備をしながら、せめてには何か言付けられたらと思っていた。
 何も言わずに突然姿を消したら、さすがに心配するだろう。の家はすぐ近くなので、走れば二分やそこらで行くことができる。今からでも充分、会いに行ける距離だ。しかしタイミングが悪いことに、はここ一ヶ月ほど家を留守にしている。
 母親の体調が思わしくなく、先月入院した頃からずっと付き添いをしているのだ。家が無人になるため、時々様子を見に帰ってきているが、寝泊まりも含めて病院近くにある別荘で過ごしている。最後にに会ったのは、もう十日も前だ。
「二人とも、準備はできた?」
「ああ」
 家のチェックを終えて自分の荷物の準備をしていたメアリーがやってきた。彼女は既に準備を終えていて、手には鍵が握られている。
くんにもお別れを言えないなんて……。もう会えないのかな」
 秀吉の言葉にメアリーの表情が曇った。普段は甘やかすことをしないメアリーだが、俯きながらも荷物を持って立ち上がった秀吉の頭に、優しく手を乗せた。
「いつかきっと、また会えるわ」
「うん……」
 いつか再会するためにも、まずは自分たちの身の安全を確保しなければならない。メアリーの言葉に含まれる教えを正確に読み取り、秀一も自分の荷物を肩にかけた。
「あなたもよ、秀一」
 息子の考えていることなどお見通しのメアリーが、諭すように言う。それでもメアリーの目えを見れば、愛情があることが分かる。秀一は頷いて、一冊の本を手に取った。
「母さん。これだけ、に届けてきてもいいか?」
 務武が集めていた関係で読んでみた秀一が、面白かったからとにすすめたミステリー小説だ。もとても気に入り、それからは新刊が出る度に感想を言い合っていた。二人で事件を考察する時間は、秀一にとって楽しみの一つになっている。
 最終刊が発売されるのを二人とも楽しみにしていた。その最終刊が、つい昨日発売されたのだった。
「あの子はまだ帰ってきていないわよ」
「知っているさ。だから、ポストに入れて戻ってくる」
 家の前を通った時、今日もが戻っている気配がなかった。あれから少し経ったが、まだ帰っていないだろう。
「仕方ないわね。ただし、搭乗時間を考えるとそこまで余裕はない。終わったらすぐに戻ってくるように」
「ああ」
 秀一は家を出ると、夕暮れから夜色に染まる道を走った。あっという間にの家に着いて、庭の手前にあるポストを見る。やはり数日分の郵便が入ったままだった。
 本を入れて帰ろうと思っていたが、無理矢理押し込むのも気が引ける。玄関のドアの前に立てかけておこう。そう考えて庭に入ると、一つだけ窓が光っていることに気付いた。
「帰ってきていたのか……」
 会えないだろうと諦めていた分、期待が膨らむ。気付けば窓から漏れる光を追いかけるように、庭の奥へ駆けだしていた。玄関に回る時間が惜しくて、ベンチが置いてある場所を突っ切っていく。
 すぐ近くまでくると、窓からがテーブルの傍に立っているのが見えた。表面をそっと指でなぞるように触れている。
「……」
 秀一は窓をノックしようとして、思わず手を止めた。の顔が、ぞっとするほど無表情だったのだ。
 一切の感情が抜け落ちているような、まるで感情を捨て去ったような顔。いてもたってもいられず、秀一は窓ガラスを叩いた。
っ!!」
「……秀一?」
 音に気付いて顔を上げたと目が合う。
「開けてくれ」
「中庭を回ってきたのか? 一体どうしたんだよ」
 は窓を開けるなり、驚いた様子で尋ねた。その顔にはしっかりと感情が見て取れて、ようやく安堵が胸を占める。焦って失念していたが、こんな現れ方をすれば驚かれて当然のことだ。
「会えないと思っていたが、会えて良かった。おかえり、
「ただいま。……その本、もしかして」
「これを届けに来たんだ」
「届けにって……」
 怪訝そうな顔をするは正しい。いくらいつでも会える状況ではなくなったといっても、わざわざ本を届けにくるなど事情があると言っているようなものだ。
「実は、イギリスを離れることになってな。俺はもう読んだから、お前にと思って持ってきた」
 詳細は何も分からない説明だった。しかも、国外への移住にも拘わらずメールで伝えることもなく、別れの時になって伝える羽目になってしまった。
「そうか……。ありがとう。帰ってくる途中で広告を見かけてはいたんだけど、まだ買えてなかったんだ。すごく嬉しい」
 そう言いながら、は一度間を置いた。すっかり日が暮れた時間に、が帰宅していないことを分かっていて届け物をしにやってきたとなると、事情を知らないにも察しがついてしまった。
「……今夜、行くのか?」
 窓から見下ろしてくるの目は、穏やかすぎるほど凪いでいた。
「ああ。だからポストに入れておくつもりだったんだが、ここの灯りが見えたからな」
「それでこっちに直接来たのか」
 は秀一の手から小説を受け取ると、大事なものに触れるようにしっかりと両手で持った。
「……ありがとうな。会いに来てくれて、ありがとう」
 何度も感謝の言葉を口にするに、秀一は違和感を覚えた。ほとんど勘のようなものだが、妙な引っかかりをそのままにして去ることはできず、の顔をのぞき込む。
「どうした?」
 すると、は黙ったままで口元に笑みを乗せた。いつもの爽やかな風が吹き抜けるような笑みではなく、どこか哀愁を感じさせるものだった。
「……俺、今日は裏から入ったから、正面の鍵はかけたままだったんだ。今開けるから回ってきてくれないか? ちゃんと、お前を見送らせて欲しい」
「分かった」
 本当はすぐに戻らなければならないが、秀一も同じ気持ちだったので断る選択肢はなかった。
 玄関に回ると、ちょうどが鍵を開けて出てきたところだった。秀一に気付くと、声を掛ける間もなく駆け出して、そのままの勢いで大きくハグをするように抱きついてきた。
?」
 やはりいつもとは様子が違う。秀一からも腕を回しながら、もう一度声を掛けた。
「なあ、。何かあったんだろ?」
「……秀一、本当にありがとう。この本も、今夜会いに来てくれたことも」
 秀一を抱きしめる腕とは反対に、の声は落ち着いていた。がありがとうと言ったのはもう何度目だろうか。違和感の原因を考える秀一に、はそのままの体勢で静かに話し始めた。
「実は、俺もイギリスを出るんだ」
 予想外の告白に、驚いて言葉を忘れる。同時に、なぜ? と疑問が浮かんだ。もしや自分たちと交流を持っていたために、にまで影響があったのか。一瞬そんな考えが浮かんだが、すぐに打ち消した。
 もしそうならば、務武はやその母親についても言及しているはずだと思い至ったからだ。
「なぜ、と聞いても良いか?」
 言葉を選んで尋ねると、が小さく頷いたのが伝わった。
「三日前、母さんが息を引き取った」
「──!」
 思わず息をのむ。耳元で聞こえるの声は淡々としているが、それが逆にリアリティを際立たせ、紛れもない現実なのだと知らしめる。
「そうか……」
 知らず腕の力が強くなる。すると、も応えるように力を込めてきた。なぜかに宥められているような気がした。
「あまり苦しむことなく、最期を迎えられたと思う。葬儀は親戚の人たちが取り仕切ってくれて、身内だけで済ませたんだ。世話になったのに、秀一たちには事後報告になって悪いな。見舞いにも来てくれて……。いつも話し相手になってくれてありがとうって、母さんが言っていた。秀一からメアリーさんに伝えて欲しい」
「……おばさんが穏やかに眠れたなら、それで良い。必ず母さんに伝える」
「頼むな」
「お前も、よくやったと思う」
 は一人で看取ったのだ。たった一人の家族の最期を。同年の友人が親を看取るというのは、秀一にひどくやりきれない現実を突きつけた。
「ありがとう」
 礼を言うの声は、やはり穏やかなものだった。
 ふと、窓越しに見たが脳裏に蘇る。一切の感情を無くした顔で、かつて家族で囲んでいたテーブルの前に立っていた。一昨年には父親を、今度は唯一の家族の母親を亡くして、誰もいない家で一人きり。何を考えていたのだろうと思うと堪らなかった。
……」
 しかし不思議なことに、今腕の中にいるには、先ほど見た虚無も、肉親を失った悲壮さも感じられない。否、それらが消えたわけではないだろう。それを表に出さないようにする余裕ができたと見るべきなのかもしれない。
 秀一は考えついた末に、もしかするとの中で何かもっと大きな事があったのではないかと思った。
 それが何かは分からないが、改めて無理を言ってでもここに来て良かったと思った。何も知らないまま離れるよりも、ずっと良い。
「今日、来て良かった」
 今思えば虫の知らせだったのか。珍しく無理を言って行動に移して良かった。これからもが大切な存在であることは変わらない。どうか幸せであって欲しいという気持ちも、きっとどこで生きることになろうと変わらない。
 二人はようやく腕をほどいて、顔を合わせた。互いにまっすぐ目を見て別れを惜しむ。
 ふと、目線の高さがほぼ同じだと気付いて、にそれを伝える。特に競っていたわけではないが、なんとなく今までの数年間が思い起こされた。
 は「秀一の方が少し高いぞ」と眉を寄せて、けれど笑みを浮かべながら言ってくる。すぐ近くで成長してきた日々が、早くも懐かしくなりそうだった。
 秀一が感慨に耽っていると、はいっそう穏やかに笑って口を開いた。
「本当に、会いに来てくれてありがとうな。最後に秀一に会えて、嬉しかった」
 その笑みに憂いはなく、寧ろ何か決心したかのような強さが垣間見える。秀一は改めて、自分も今後のことを考えようと思った。
「そろそろ時間だ。……はいつ頃発つんだ?」
「もう少し先になりそうだ。先ずはこの家の整理をしないと。その後で親戚と合流する予定だ」
「そうか。頼れる人がいるんだな……。少し安心した」
 そこでふと思う。母親の葬儀を執り行ったということは、その親戚は母方の親族だろうか。ならば、はこれから日本で暮らすのだろうか。
「これからは日本で暮らすのか?」
 詮索する意図はなかったが、は困ったように眉を下げた。
「……さあ、どうだろうな。いつかは、日本に行くのも良いかもしれないな」
 曖昧な言葉が答えのようなものだった。詳しく話せない事情があるのだ。
「秀一はどこに行くんだ?」
 に聞かれて、今度は秀一が困ったように笑う。
「すまん。俺も詳しいことは話せないんだ」
 “俺も”という部分に、が目を眇めて首を傾げてみせる。
「どうやら、お互い様みたいだな?」
「そうだな」
 肩を竦めて見せれば、それが答えだった。二人はそれ以上、互いの事情を聞き出すことはしなかった。
「なあ、秀一。この小説、これからは番外編がシリーズとして出るらしいぞ」
 知っていたか? とが口端を上げて言う。
「そうなのか?」
 初耳だったので、思わず聞き返す。言われてみれば、納得するところも多かった。作中には魅力的な登場人物が大勢出てくる。掘り下げることができそうな興味深い事件もあった。寧ろファンには待望のものだろう。
「俺たち、また会えたら良いな」
 の口から出た言葉が、小説がこれからも続くことになぞらえたものだというのは直ぐに分かった。
 いつかまた会いたい。そう思っているのは秀一も同じだ。
「会えるさ」
 秀一も心の中でまた会おうと密かに誓う。お互いが抱えている事情は分からないし、教えられないが、それでもいつの日か、また会えることを願った。


4



 離れていた間の出来事が、走馬灯のようにの頭の中を駆け巡っていく。次々と浮かんでは消えて、遡るように記憶が移り変わる中で辿り着いたのは、赤井と別れたあの日だった。
 ──会えたんだな。
 もっとも、お互い思いもしない再会だったが。これはこれで自分たちらしいかもしれない。
 長いようで、あっという間だった。間近にある体温が、ひどく懐かしくて心地良い。気付けば二人は、自然と互いのこれまでを称え合うように肩や背中に触れていた。すっかりいい年の大人になってしまったが、この時ばかりは少年の頃に引き摺られるように感情が高ぶり、再会の喜びを分かち合う。
 ようやく腕を解いたあと、赤井がの顔をよく見ようと手で包むように触れてきた。まるで夢ではないことを確かめているようだと思ったが、も似たような心地だったので人のことは言えない。
 ただ、長く伸ばされた髪を見ていると、なにか験を担ぐ意図が込められているのだろうかと案じる気持ちが湧いてくる。
 互いに打ち明けられない事情があるのだと察しながら、何も言わないまま別れたあの日。当時の環境が大きく変わったように、きっと赤井にも何か大きなことがあったのだろうと、一先ずは心の中に置いておいた。

 は新しくコーヒーを煎れながら、改めて簡単に事情を話すことにした。
 全てを洗いざらい明かすわけではないが、赤井が援護役だと知った時に、これは打ち明けておくべきだと直感したのだ。身元を偽り、変装しなければならなかった根本的な部分を説明しなければ、偽装死をする目的すら曖昧になってしまいかねない。
「詳しい説明する前に、俺たち家族のことを少し話しておこうか」
 が提案すると、赤井は待っていたように頷いた。
「そうだな。ぜひ聞かせてくれ」

 業界関係者として潜入したCIAエージェントの男と、研究開発に精を出すことが生き甲斐の科学技術者の女。の両親が出会ったのは、学会後のパーティーでのことだった。
 母親はさっぱりとした性格の持ち主だが、人付き合いに関しては正直すぎるところがあった。功績を残さないどころか碌に学びもせず、研究もせず、富と名声のみを得ようとする人間を嫌っていた。
 研究に没頭することもしばしばの変わった女性で、表舞台に立つことを極力避けていた。これも一応学びになるだろうかと刺激を求めて研究所に所属していたが、この時には既に退所を決めていた。所長やスポンサーと価値観が合わなかったのだ。
 しまいには、表に出ずとも好きなだけ研究させてやるから功績を渡せと言う始末。いくら名声に興味がないからといっても、自分の才能を養分にされるなど真っ平だ。金銭的援助をちらつかせてくる姿が滑稽に思えるほどだった。
 一方で、の父親はCIAエージェントで、諜報活動をしていた。しかし彼の本来の任務は監察活動にあった。監察活動はパンドラの箱を開けるようなものだ。ただでさえ国家機密情報だというのに、深部はさらに混沌としている。
 当時のCIA長官に他国との内通疑惑がかけられており、組織内は密かに揺れていた。しかし彼には身に覚えのないもので、疑惑自体がフェイクである可能性が高かった。そこで上層部は、以前から長官と折り合いの悪い人物をマークするよう指示。臣の父親は先日ようやく手がかりを見つけるに至り、この日監察対象と繋がっている関係者の一人、科学技術界の重鎮を探るためパーティーに潜入したのだった。
 会場には業界関係者だけではなく、スポンサーであるカンパニーのトップも顔を出している。の父親としてはここで重要人物たちの関係性を目で見て確認しておきたいところだった。
 そんな二人は、パーティーが始まって1時間ほど経った頃に顔を合わせた。関係者として挨拶を交わした二人だったが、の母親は少し休憩しようと考えていたところだったので、さり気なく壁側に移動した。
 参加者を眺めながらの会話は、以外にもテンポ良く続いた。それぞれ知識量も多く共通の話題には事欠かないため、話しているうちに会話が弾み、あっという間に意気投合した。
 勿論、の父親は潜入中ということで情報を聞き出すのが目的だったが、彼女は会話の中で男の意図に気付いており、こっそりと指摘したのだった。CIAということには気付いていなかったが、情報を聞き出そうとしていることを見抜いたのである。
 ──「私はもうすぐ退所して、業界からも去る予定なの。私利私欲にまみれたお偉方の事情なんて知ったことではないのよ。あなたのことは口外しないから安心して。私は今夜、素敵な男性に出会った。それだけ覚えておくわね」──
 そう言って颯爽と去って行く後ろ姿に、誰にも靡かない毅然とした美しさを見た。彼女の心根は見事なまでに清々しく、印象的な眼差しには一切の曇りもない。
 ふと、会話の最中に垣間見えたチャーミングな一面が思い浮かんだ。泰然たる態度との絶妙なバランスで、思い出すだけでも胸の奥が疼くようだ。全てが彼女の魅力を引き立てている。
 の父親はその夜、一人の女性に心を撃ち抜かれたのだった。
 もう二度と会うことはないだろうと思っていた二人は、しかし思いもしないシチュエーションで再会を果たす。まさか近所のスーパーマーケットで再会するなど、誰が予想できるだろうか。
 先に気付いたのは男の方だった。真正面から呆然と見つめられれば、何だろうと彼女も目にとめる。そうして顔を見た時、あの時の男だと気付いたのだった。髪型や服装が違えども、ずっと忘れられずに心に住み続けていた相手だとすぐに分かった。
 一夜限りの出会いだった相手が目の前に現れたことで、二人は驚きの余りカートを持ったまま静止。そのまま見つめ合い、暫くの間立ち尽くすことになったのだった。

 そう笑い話としてに語り聞かせていた両親は、とても幸せな顔をしていた。
 再会した時、の父親はCIAを離れた直後で、母親は既に独立して数年が経っていた。二人がそのまま別れるはずもなく、互いに想いを告げる。それから交際を経て、やがて生涯を誓い合った。
 父の事情もあり、婚姻関係を知っているのは限られた人間と親族のみだった。の父親はCIAの動きを警戒して身元を偽り別人として暮らしていたため、書類上のことではあるが母親はその人物と結婚したことになる。当然、結婚後も変装を続けなければならない。
 常識的には理解しがたいものだが、二人にとってはそれほど大きな問題ではなかった。彼らにとっては寧ろ、特殊な立場を理解し共有できる相手と出会えたことは奇跡で、共に生きることを選ぶことに躊躇などなかった。
 の母親は、夫の話を聞いては変装道具を開発するなど、まるでミッションを楽しむかのように生き生きと暮らし、父親も一般人としてエンジニアの職に就き生活していた。夫婦で楽しく過ごしていた彼らは、やがて子どもを授かる。
 出産の頃に伯父の周囲で物騒な事件が起こったため、万が一の可能性を考えて息子には始めから人前では容姿を変えて生活させることに決めた。いずれイギリスに移り住むことを計画していた彼女に合わせる形で、父親も準備を進めていった。
 やがて母は無事にを出産し、二人の愛情を受けて息子はすくすくと成長していく。両親はが物心ついた頃から少しずつ自分たちの事情を説明していった。日頃から身辺に気をつけることが必要になるからだ。不自由な生活をさせることになる代わりに、両親はさまざまな工夫をして、が少しでも楽しめるような教え方をした。
 スクールに通い始める年頃に満を持してイギリスに移住。変装しなくてもいいということで、頑張ってイギリス英語をマスターしていたは、移住先での生活にもすっかり順応した。
 こういう経緯もあり、にとって変装は幼い頃から身近なものだった。両親が段階を踏んで教えたお蔭で、スクールに通う年頃には必要なことだと理解できていたし、自分で変装できるようになっていた。
「それでもやっぱり、本当の姿と本当の名前で一度でも生活すると、よく分かったよ。ありのままの自分でいられる自由さ、開放感をな。これこそが本当の自分だという実感が湧いた。イギリスで暮らした日々は俺にとって特別で、大切で、今でも眩しい思い出の1ページだ」
 堂々と言い切れるほどに、にとってイギリスで過ごした少年時代は特別だった。静かに耳を傾けていた赤井は、そこで漸く気を緩めるように息を吐いた。
「そんな事情があったのか……」
「この姿と、という名前が本当の俺だ。この姿で秀一と出会えたことは、今思うと凄くラッキーだったな」
 明るい調子で言うに釣られるように、赤井の目元も和らぐ。苦笑いのように笑みを浮かべた口元は、それでも確かに笑っていた。
も含めて変わっているとは思っていたが、両親が出会った頃から既に特殊な環境にいたんだな」
 しみじみと零す赤井に、は首を傾げて尋ねる。
「俺も?」
「おいおい、さすがに少しは自覚しているよな。暇つぶしにプログラミングのコードを書いたり、パソコンやタブレットのスペックに改造したり、挙げ句に平然とクラッキングをするような子ども、お前以外にお目に掛かったことがないぞ」
「そうか?」
「おばさんとも何か作っていたよな? 通院のついでに別荘に泊まり込みで」
「パソコンの改造とか、何かを作り出すことに関しては母さんの得意分野なんだよ。助言もくれるし、俺もいろいろと勉強になった」
 子どもながらに一般的ではないことは自覚していた。赤井もそれを感じ取ってはいたものの、深く追求することなくの傍にいた。
「おばさん、と別荘に行く時は特に楽しそうにしていたな」
「俺が言うのもなんだが、息子と一緒に何かを作ることが楽しかったんだろうな」
 教え甲斐があると言っていた。基礎的な学習はもちろんだが、専門分野に通じている両親が教師代わりなので、自ずとそれらの方面の知識も入ってくる。
 なまじがそれをやってのける頭脳とセンスを持っているだけに、好奇心旺盛で学ぶことに積極的だった子どもはみるみるうちに知識を吸収したというわけだ。
「懐かしいな。そうそう、庭にあったトランポリンも体の使い方を教える道具だったんだぞ」
「……どうりで身のこなしが並外れていたわけだ」
 トレーニングは興味深いことの連続で楽しかった。が興味を持った銃の取り扱いも真剣に教えてくれ、息子の意見を聞きながら上手い具合に教える方法を取っていたように思う。
 スパイか刺客でも育てるつもりなのか? という内容が混ざっていると気付いたのは、ハードボイルド映画を見た時だ。今となっては笑い話だが、あれは一般常識を知ることも重要だと理解した瞬間だった。
「俺からしたらメアリーさんや務武さんだって、只者じゃない雰囲気が出ていたがな」
 実は、メアリーと務武に関しては父親に聞いてみたことがあった。視線や仕草の隙のなさがどうにも気になって、一般人ではないのではないかと思ったのだ。
 父親がCIAを警戒していたこともあり、誰が潜んでいても不思議ではないと思っていたからだ。ただ、悪意の類いは全く感じないので、そういう意味で疑ったことは一度も無い。勿論、息子である秀一や秀吉を疑ったことも無かった。
 父親も二人のことは気付いていたが、CIAとは無関係だと言っていたので、これからも心からの友人でいて良いのだと嬉しく思ったものだ。
「確かに、あの人たちは普通じゃないかもしれんな」
「なにを他人事みたいに言ってるんだよ」
 は思わず笑って言う。
「秀一だって並みの人間じゃないと思うぞ。秀吉も賢い子だったし、一家揃って只者じゃないなんて映画の登場人物みたいだ」
「お前が言うか?」
「まあまあ。ここはお互い様ということにしよう」
 変わっているかどうかは置いておくとしても、互いの事情を特に詮索しなかったのはお互い様だった。
 日常会話の流れで互いに家族について話すことはあったが、両親の馴れ初めや自分自身のルーツを深く掘り下げて話すことや、聞き出すようなことはしなかったのだ。と赤井が親しくなる上で、家庭事情を詳らかにする必要は感じなかった。ただ単純に、気が合った。そんな何気ないところから互いに興味を持ったのだ。
「それにしてもまさか、おやじさんが元CIAだったとはな……。がCIAに入ったのは、おやじさんの影響か?」
「影響か……」
 はコーヒーを一口飲みながら、言葉を濁した。
「無理に答えなくてもいい。ただ俺が知りたいと思っただけだ」
 ──そんなことを言われたら、断りにくいだろう。
 は苦笑いを浮かべて心の中で呟いた。とは言っても、これが捜査官としての情報収集などではなく、本人の言う通りただ知りたいと思ったから尋ねたということも分かっている。を見つめる赤井の目を見れば、そこに駆け引きが存在しないのは一目瞭然だった。
「そういうことになるんだろうな……。父さんのことがなければ、俺はCIAに執着しなかっただろう。そもそも父方の親戚と直接顔を合わせることも、なかったかもしれない」
「父方の親戚?」
「話せば少し長くなるが……実は父さんが死んだ翌日に、父さんの兄──つまり俺にとって伯父にあたる人からコンタクトがあったんだ。勿論、父さんは別人として生きて死んだわけだから、向こうは極秘で動いていただろう。伯父との遣り取りはそれ以来、密かに続いていた。母さんが死んだ時も、俺が一報を入れたら地理的に時間が掛かる母方の親戚筋に代わって力になってくれてな」
 の話を聞いていた赤井は、別れの日のことを思い出して表情を変えた。
「あの時お前が言っていた”親戚”は、父方の親族のことだったのか」
「え? ……ああ、そうか。そういえば秀一から日本に行くのかと聞かれたな。俺の話を聞いたら尚更、母方の親戚だと思うよな。そっちの親戚とも顔は合わせたんだが、主に動いてくれたのは父方の親戚なんだ。ややこしい言い方をしたな。悪い」
「いや、それは良い。詳しい事情を話すことが出来なかったのは理解している。俺が勝手に解釈しただけだからな。……それより、公に使える身元を偽造できるほどの力とコネクションがあるというのは……。いくらその伯父とやらが政府高官だったとしても、簡単にまかり通る手段じゃないだろ」
 一体どんな裏技を使った? と続ける赤井に、は目を細めて口元に人差し指を添えた。
「秘密だ」
 こればかりは、たとえ心を許した相手でも口外するわけにはいかない。戯れのような仕草とは裏腹に、何があっても話さないという堅い意思が見て取れる。
 赤井も覆すことができないことをよく知っているはずだ。だからこそは口を噤むと明言したのだが、予想通り、赤井の眉間に皺が寄っている。
「懐かしいな、秀一のその顔」
 赤井とは対照的に困ったように笑むの声は柔らかく、言葉の通り思い出を懐かしんでいるようだった
「それはこっちの台詞だ」
 の穏やかな声色に毒気を抜かれた赤井は、口元に苦笑いのような笑みを浮かべて言った。困らせたいわけではない。
 赤井自身も、この手の話題を口に出すことでさえ危険なことは分かっている。FBIとて同じだ。協力関係であっても開かせない部分があるのはお互い様だった。 
「……まさかとは思うが、伯父とやらがお前を駒のように扱っているわけじゃないんだな?」
「当たり前だ。俺がそんな立場に甘んじると思っているのか?」
「いや」
「たとえ父さんが絡んだ事情があろうと、都合の良い操り人形にされるほど能無しじゃないつもりだ。勿論、気付いていて駒になるつもりもない。自己犠牲は性に合わないんだ。俺がそういう人間じゃないことは、秀一もよく分かっているだろう?」
「ああ。誰よりよく知っている。念のための確認だ、許せ」
 赤井はそう言って、短く息を吐いた。きっと本当に聞きたいことは別にあるのだ。
「……俺も一応言っておくぞ。俺たちの計画はある意味では復讐なのかもしれないが、関係者の死を持って目的を果たす気は更々ないからな」
 真直ぐに赤井の目を見て告げる。疑っているわけでなかっただろうが、の言葉で赤井の表情が一層引き締まった。
「分かってる。その言葉が聞けて良かった」
 赤井も立場上、もしもがFBIにとって害があることを計画しているのならば阻止しなければならない。
 が殺害での復讐を考える人間ではないと分かっていたが、些細な綻びは弱点になりかねない。ここで本人の口から聞いておくことは重要なのだ。それはも充分理解していた。
「伯父は、父さんからよく俺の話を聞いていたらしい。俺や母さんの身に危険が及ばないようにフォローしてくれていたのも伯父だ」
 伯父とは直接顔を合わせる前から画面越しに対面しており、父親と進めていた計画についても話には聞いていた。父親の死の真相に繋がる話もしてくれ、母親の現状や将来についての相談もしていたほどだった。
「父さんの死に関する疑問を解決するために、俺の考えを聞き入れてくれて、力を貸してくれたのも有り難かった。本当に感謝してる」
……」
「別人の身元を手に入れて渡米することにしたのも、ちゃんと相談して決めたことだ。安心してくれ。勿論、アメリカに来てからはずっと変装していた。常にとして生きてきたと言ってもいい。アメリカではスクールにも通って、卒業した後も情報を揃えるために潜入もした。潜入の度にいろいろと経験したが……全てはCIA内部に潜り込むため、そして隠された真実を炙り出すためだ」
「どんな計画なのか教えろと言うのは、さすがに無理だろうな」
 赤井の様子から、の父親が絡んでいることを察しているのが分かる。引き際を熟知している言葉は、の立場を理解しているからこそのものでもあった。
 それでもの耳には歯がゆそうに響いて届く。赤井は表情にこそあからさまに出してはいないが、に対しては全てを隠す気がないこともあって、目を見れば強烈に伝わってきた。
 感情を努めて抑えようとしている。そんな眼差しを受け取って、は申し訳なく思いながら眉を下げた。
「悪い。CIA内部に関わる情報になるから、今は話せないんだ」
 数秒見つめ合った後に、じりじりと焦がすようだった赤井の双眸が瞼に覆われる。己を律するように一呼吸を置いて開かれた時には、いつもの冷静な色が戻っていた。
「それは終わったら話すという意味か? それとも、終わったら俺たちにも分かるという意味か?」
「分かる」
「ホォー……」
「FBIに害が及ぶ類いではないから、そこは安心して欲しい。ただ……」
「ただ?」
「終わった後で、秀一が望むなら話そう」
 計画が成功し、その後に会うことがあれば。その時に赤井が望むのなら。
 口に出すことなく、心の内だけで続けた言葉。しかし赤井は承知しているとでも言うように頷いた。協力の対価は払うつもりで用意しているし、信頼に応えたいとも思うが、さすがに許可されていない情報を話すわけにはいかないので仕方ない。
「俺が言えることは、今回の事件と俺たちの計画は全くの無関係ではないということだ」
「……マクレガーだな」
「この計画には、さっき話した伯父と、彼とは立場が違うが志を同じくする人物、それから両親の古い友人が協力してくれている。つまり、秀一を除けば俺の正体を知っているのはその三人ということだ」
「お前の伯父という人物を含めて、その三人が誰なのか気になるところだが……」
「だろうな」
 もし自分が赤井の立場だったなら、どういう人物なのか知っておきたいと思うだろう。
「それでも教えるつもりはないということか。……ジェイムズは知らないんだな?」
「ああ。況次第で話す必要が出てくるかも知れないが、少なくとも作戦中は極力伏せておきたい。偽装死についても、ジェイムズや元副長官には俺と伯父の目的は伏せた上で、あくまでも例の組織や暗殺回避のための作戦として伝えてある」
「なるほど」
「察しはついているだろうが、俺がであることは他言しないでいて欲しい。たとえジェイムズが何か勘づいたとしてもだ。作戦中はあくまでもとして接してくれ」
「了解した。お前が望まないことは絶対にしないと誓おう」
 真剣な眼差しに、の脳裏に昔の赤井が蘇る。少年の面影は赤井に重なり、馴染むように一体になった。改めて赤井と再会できたのだと実感した。
「助かる」
 赤井の協力が得られれば、生存の疑いを限りなく低くし、さらに作戦中のFBIとの連携、例の組織の動きについてもリアルタイムの情報をより得やすくなる。
 本当は一人で遂行できれば一番良いのだが、敵対している立場にいる人物の手でトドメを刺す方が、より死亡の信憑性は増すのだ。
「秀一には片棒を担がせることになるが、それでも引き受けてくれるか?」
 協力と言えば聞こえは良いが、ようは赤井を利用するということだ。リスクを分け合うことにもなる。
 しかし赤井は、の言葉に笑みさえ浮かべて口を開いた。
「愚問だな。俺を舐めるなよ」
 強い意思が宿る目が、まっすぐにを見つめる。
「捜査官としての責任もあるが、それとはまた別だ。他の誰でもないお前の命を預かるんだ。……の助けになるなら、共犯者になってやるさ」
 赤井の言葉はそのままの胸の奥まで届き、熱くさせた。
 思わず口元に笑みが浮かぶ。元より成功させる気は満々だったが、更に心強く満たされていくようだった。
「有難う」
 は赤井の覚悟を受け取り、いよいよ本題に入ることにした。

「先ずはこれを見てくれ」
 パソコンを立ち上げて、画面に今回の事件の主な関係者を映し出す。
 テログループ、研究所からウイルスサンプルを持ち出した研究員、仲介グループ、現在ウイルスサンプルを所持しているマクレガー、取引相手の例の組織、CIAウイルスサンプル回収作戦班、暗殺班、彼らに指示を出し隠蔽を目論む政府上層部、そしてジェイムズ率いるFBI特別捜査班。
「CIAの特殊部隊は、すでに該当国でテログループのトップと幹部を暗殺している。アメリカ国内にいた幹部の一人は、俺含め招集チームが拘束する前に殺されていた。そいつが持っていた機密情報は俺が回収済みだ。殺害した犯人は秀一が潜入している組織のメンバーだと考えられている。移送中の狙撃についてもCIAは口封じだと結論を出したが、間違いはないか?」
「ああ、間違いない。狙撃したのは組織の人間だ。スナイパーとして重宝されている男で、もう一人はそれをサポートしていたはずだ」
「そうか……」
 は画面の端に記している名前を指して、関係者についての説明に戻った。
「カジノのオーナーも関わっている可能性を考えたが、どうやらウイルスサンプルの取引には一切関わっていないようだ。詳細どころか、今回の取引がウイルスだということも知らされていなかった」
「二人の密談の内容は何だ?」
「メインは捜査機関……この場合はオーナーと周辺組織をマークしているDEAだな。その動向確認だ。大規模な麻薬カルテルと繋がっているだけに、密売の件で捜査が入ればマクレガーにも影響が出る。普段ならまだしも、重要な取引が控えているこのタイミングで動かれたら流石に困るんだろう」
「規模を考えると、動くとしたらDEAは応援要請をするだろうな。まだ指示は出ていなかったと思うが……ただ、この場合動かれて困るのは俺たちも同じだ」
「やつがサンプルを隠している以上、下手に手を出せないのが厄介なんだよな」
「マクレガーがDEAに拘束されたとしても、FBIの方から身柄を引き渡すよう手回しはできるが……やつが素直にサンプルの在処を吐くとも思えん。確実に面倒な事態になるだろうな」
 赤井の言葉に頷いて同意する。
「実はCIAも最初は現物を奪うことを考えていたんだ。だが保管場所が特殊らしくてな。かといって此方は大事にするわけにはいかない。結果的に、奪うよりも持ち出す時を狙った方が良いという結論になった」
「組織の方も似たような考えだ。だからこそ監視を付けた上で、取引を持ちかけた」
 やはりそうだったかと納得する。マクレガーと取引をすると知った時、始めに感じた違和感はそこだった。
 彼らは目的のためなら手段を問わない印象があっただけに、真面に取引をしようとしていることが意外だったのだ。とはいえ、マクレガーも例の組織も、フェアであろうとは露程も想っていないだろう。
「CIAは関係者の始末をして回っているようだが、マクレガーはどうするつもりだ? は暗殺を阻止するのか?」
 尋ねてはいるが、察しが付いているのだろう。FBI捜査官である赤井からすれば、暗殺で片を付けようとする政府とCIAは敵でしかない。
 ただ、現在のの立場から見た時、マクレガーがFBIの手のうちに落ちることは決して悪い展開ではない。そのため、FBIを特別に警戒する必要はなかった。
「ウイルスサンプルの回収が最優先事項だ。完了次第、マクレガーは暗殺。これがCIA長官の命令だ」
「切り捨てるのか」
「元々、制裁を下すことが決定していたんだ。マクレガーのカンパニーに焦臭い噂があるのは知っているよな?」
「ああ。別のチームだが、FBIも動いている」
「やつが捕まったら困る連中が政財界にいるのは察しの通りだが、裏で糸を引いている人物はもっと上だ。マクレガーは捨て駒に過ぎないということだ」
 赤井は口には出さなかったが、何か察したように目を細めた。
「……とはいえ、今回の件は完全にマクレガーの暴走だ」
 説明しているでさえ、マクレガーの行為は眉をしかめるほど愚かなものだった。
 カジノで直接対面して分かったことだが、常軌を逸した悪手を打ちながらも、マクレガー本人がそれに気付くことができない状態にまでいっていた。
 表には一切気取らせない態度は流石としか言いようがないが、だからこそ駒として使い続けるのは危うい。
「まさか上層部も、ウイルスに手を出すとは思っていなかっただろうな。CIAの工作員を使って仕掛けることなど今に始まったことじゃないが、生物兵器はマクレガーの専門じゃない。……手を出してはいけないパンドラだ」
「研究員を脅して持ち出させたのは、マクレガーなのか?」
 赤井に問われ、は頷いて肯定する。
「マクレガーが子飼いのテログループに指示して脅させたのさ。結果、見事に卑劣な手段で研究員を脅迫し、証拠を隠滅した上で研究員を殺害し口封じもした。ただ、今回に限ってはマクレガー自身の思考がなんとも怪しい。精彩を欠いているし、強引すぎる。まあ、それも致し方ないことではあるんだが」
「どういう意味だ?」
 訝しげに尋ねる赤井に、は一つのメモリを取り出してパソコンに差し込む。正常な状況判断ができなくても不思議ではない理由だ。
 そこにはマクレガー本人も気付かないうちに摂取させられている薬物の名前と、関与している部下、その手口と証拠写真が集められていた。
「これは……」
 予想外の事実に絶句する赤井に、は哀れみに似た眼差しを向ける。の説明を聞けば聞くほど、理解しがたい蛮行だ。しかし同時に、今回のCIA側の過剰なほどの暗躍や他組織に対する情報工作も腑に落ちただろう。
「この部下は、かつて父さんが関わっていた案件──当時のCIA長官を陥れた人物の血縁だ」
「……」
 赤井が脱力したように壁に背をつける。目深に被っていたニット帽ごと髪を掻き上げる様子は、頭の中を整理しようとしているように見えた。
「マクレガーはウイルスを質に上層部を脅して交渉するつもりだったんだろうが、受け入れられなかった」
「当然だ」
 理解に苦しむと言いたげな声色だ。それでも赤井の表情を見ていると、強い意思は変わらずそこにあるのが分かった。言うや否や視線を寄越してきたかと思えば、の言葉を待たずに続きを継ぐ。
「そこに絶秒なタイミングで声を掛けたのが、あの組織というわけか」
「ああ。正直、何の因果かと思ったよ。組織からの勧誘に辟易していたところに、マクレガーに目をつけて取引を持ちかけるとは」
「その上お前は勧誘の件を証拠として捏造され、あらぬ疑いで暗殺の危機か……確かに、偽装死が一番手っ取り早いな」
 神妙な面持ちで呟く赤井に、画面上に地図を開いて指し示す。
「来週開催されるマクレガー主催の会社設立記念パーティー。会場として使われるビル近くのホテルで取引が行われる」
「……決まったのか。俺はまだ知らない情報だな」
「これから伝えられるんだろう。そこで秀一に聞きたいんだが、取引に同席するメンバーは分かるか? ホテル内の警戒要因だ」
「おそらくマクレガーを監視している二人がホテル内に潜入する。外からはジンとウォッカが見張るだろう。マクレガーについている二人はスナイパーだ。俺は今のところ周辺待機の予定だが、お前の動き次第では館内に入るだろうな」
「……今更だが、潜入してまだ日が浅いのに、よく監視役に抜擢されたな? アカデミーの成績から実力があるのは確かだろうが、やつらの信用を得るのは簡単なことじゃない。強力な伝手でもあったのか?」
「伝手と言えるほど大層なものじゃない。寧ろ、諜報活動においては使い古されている手だろうな」
 自嘲めいた顔をする赤井に、内心で首を傾げる。赤井がそんな顔をするような接近方法といえば、といくつか頭の中に思い浮かべていく中で、ピンときた。
「……まさか、ハニートラップか?」
「……」
 似合わない。いや、赤井の容姿は充分ハニートラップに使える材料ではあるが。
「ハニートラップなんだな」
「ああ」
 情が深い人間だと知っているからこそ、はなんとも複雑な心地になった。
 諜報活動をしてきたも、コネクション作りや情報入手のためにハニートラップを仕掛けた経験はある。
 マクレガーのお気に入りであるアシェルに変装して潜入したのも、状況は違うが一種のハニートラップだ。ただ、この場合は盗聴システムを仕掛けるのが目的であり、成り代わりということもあって新たに関係性を築く必要は無い。接触も必要最低限で済んだ。
 それに対して赤井の場合は、長期的な関係の維持が必要になる。義理堅い性格は昔のままのようなので、案じる気持ちが強くなった。
「大丈夫なのか?」
「今のところ良好な関係を維持できている。彼女の妹がコードネームを与えられているメンバーでな。まだ子どもだが、組織の中でも重要な位置にいる人物なんだ」
 赤井が胸ポケットから携帯電話を取り出し、画像を見せてきた。そこには茶髪の少女が映っていた。
「なるほど……この子の紹介で組織に入ったのか」
「そういうことだ」
 は押し黙る。FBIも以前から例の組織に関する事件を捜査しており、長年マークしていることはジェイムズから聞いた。
「仕方がないとはいえ、タイミングを逃したな……」
 呟くように零れた言葉に、赤井が視線を寄越した。
「なんのことだ?」
「もう少し早く秀一と再会していれば、力になれたかもしれないだろう? 重要な取引で監視を任されているくらいだから上手くやっているんだろうが……関係が続いているなら、くれぐれも慎重にいけよ」
「勿論だ」
 は考える。赤井としては、このまま実績を積んで幹部クラスからの信用を得たいところだろう。今回の事件などは格好の機会ではないだろうか。
 ウイルスサンプルの取引が失敗に終わっても、それは赤井の失態ではない。赤井たち監視役は、取引を台無しにした張本人を始末するように命じられるだろう。そして彼は、諸星大としてを追い詰め、命令通り息の根を止める。
 成功すれば更に実力を認められ、内部情報を握っているメンバーと接する機会が増えることだろう。
 がそんなことを考えていると、当の赤井が緩く笑った。
「そうは言っても一年は経っているんだ。分かってくることもある。直接お前の役に立ちそうな情報があれば良かったんだがな。なにぶん今は、ようやく幹部連中とお近づきになった段階なんだ」
「充分だ。俺の方からは手を出せないから、正直助かった。目をつけられている状況で下手に突いて、計画に支障が出たら元も子もないからな」
「賢明だ」
 が少し調べてみた感触としては、短期間で全てを把握できるような組織ではないということだ。各国の情報機関や捜査機関も手を出しているようで、非常にデリケートな爆弾のようなものだった。
 幸いなことに、ある程度の内部情報は長期潜入をこなしている本堂から得ることができるため、赤井の情報と照らし合わせるのは合理的だ。
「それで、秀一は一人なのか?」
「いや、俺も二人だ。今は別行動をしている」
「もう随分時間が経ったな。怪しまれないか?」
「まだ大丈夫だ。ベガスで襲ってきたやつらがいたろう? 肝心なところで邪魔をされたらかなわんからな。片付けてくると伝えて今は持ち場を任せている」
 なんでもないことのように言う赤井に、は思わず笑った。
「ほぼ計画通りじゃないか。策士め」
「お前ほどじゃないさ」
 冗談交じりの相槌を打ちながら、キーボードを叩いて地図上に逃走ルートを表示する。
 複数の組織を相手にするため細かなルートは変わるだろうが、最終地点は一つ。それと気付かれずに誘導し、の最期を見せつけるのだ。
 が大体のルートと逃走手段を説明した後、赤井が監視の配置や担当エリアなどを付け加えていく。その中で、自分が知り得た組織メンバーの特性や外見の特徴、コードネームなどをに教えてくれた。も自分が持っている情報を出し、二人はそれぞれの情報を照らし合わせながら計画を詰めていった。

「──おっと。噂をすればだな」
 赤井の携帯電話が震えて、着信を知らせた。相手は赤井が今回の一件で組んでいるメンバーで、赤井を尾行していた別組織を始末すると言って離れた後、の監視を続けていた人物だった。
 どうやらの滞在先が別の場所である可能性が出てきたという。赤井は会話を続けたまま、デスクの上に置いているの携帯電話に視線を移した。長い指がコツコツと画面を叩く。は意図を察して、入力画面を開いてから手渡した。すぐさま打ち込まれていく文字を目で追う。
 ──なるほど、ダミーだと気付いたのか。
 画面には新たに見つけ出した潜伏先の情報と、大丈夫なのかと問う簡潔なメッセージが入力されていた。隣に立っている赤井を見上げると、大丈夫かと唇が動いた。は頷き、問題ないと入力して見せる。
「──ああ、鼠は散らした。──殺してはいない。──そう言うな。警告はしてやったんだ。懲りもなくまた姿を見せたら、その時は容赦なく狩ればいい」
 尾行していた連中のことを報告しているのだろう。は微かに漏れ聞こえる相手の声を聞きながら、なかなか鋭いところをついてくる人物だと思った。
 いくらダミーといっても、ホテルのチェックインなどが行動した痕跡は作ってある。正確に言うと、そうなるように手配しているのだが。が一向に姿を現さないことを不審に思って調べたとしても、出入りした痕跡があるというわけだ。
 人の行き来が多いホテルを選んでいるのは、見逃したとミスリードさせるためでもある。普通ならここでチャックアウトしたの後を追うところだが、電話の相手はホテルの宿泊がダミーだと気付いた上に、別の場所も探し当てた。
 なかなか頭が回る人物だ。自分の仕事に自信を持っているが、過信するのではなく冷静に物事の流れを読み、考察する能力がある。
「××ホテル? ──分かった」
 赤井が会話を終えた。通話を切ったところで、もう音を出してもいいだろうと椅子の背もたれに体を預ける。
「怪しまれていないか?」
「ああ。向こうは今から移動するそうだ。俺はもう一つの方を確認するようにとの言いつけだ」
「××ホテルなら、あそこは単に宿泊していただけの部屋だ。無駄足になるから行かなくていいぞ」
「そうか。いずれにしろ二時間ほどしたら出るが……それより、やつが向かった方の部屋は放っておいていいのか?」
「構わない。どうせあっちもダミーだ」
 さらりと答えると、赤井がうっすらと口端を上げる。
「用意周到だな。俺が調べた時には出てこなかった場所だが、新しく手配したのか?」
「まあな。とはいっても一度ダミーに気付いたなら、また見破られるのも時間の問題だな」
「おそらくな」
 赤井は一息吐いて、胸元から煙草を取り出した。
「いいか?」
「どうぞ」
 紳士めいた口調で喫煙を許す。少年の頃しか知らないにとっては、煙草を吸う赤井の姿を見るのは新鮮だった。
 今まで赤井からほのかに香っていた煙草の匂いが、今度はいっそう濃くなる。
「珍しいな」
 マッチを擦って火をつける様子を見て思わず呟くと、赤井は微かに口端を上げた。慣れた仕草で吐き出される紫煙を見送ってから、も自分の煙草を取り出す。
「あ」
 煙草を咥えて火をつけようとしたところで、ボッと音を立てて中途半端に燃えてすぐに消えた火。ライターオイルが切れていた。
「秀一、マッチ一本もらえるか?」
 座ったままで顔を上げると、赤井が指に挟んでいた煙草を再び咥えた。「さっきので最後だ」と言って身を屈めてくる。どうやら直接火を分けてくれるらしい。は雑に咥えていた煙草に指を添え、赤井のそれに近付けた。
 微かな音だけが存在する中で互いの息遣いを読む。赤井の呼吸に煽られて、燻っていた火がの煙草に伝い移る。先を焦がした火の欠片に空気を含ませれば、やがてじりじりと燃え始めた。
「サンキュ」
 軽く吸い込んで吐き出す。赤井の煙草の匂いの中に、ふわりとのものが混ざった。
「意外だな」
「ん?」
「お前が煙草を吸っているとは思わなかった」
 赤井の言葉に思わず笑う。
「似合わないって?」
 吐息のように漏れた笑みに続けて首を傾げてみせれば、赤井は生真面目にもすぐに否定した。
「そういうわけじゃないが……子どもの頃に別れて以来だからだろうな」
「分かる。でも、秀一はヘビースモーカーだとしても驚かないな」
「ああ、その通りだ」
 肯定する言葉に、やはりそうだったかと納得する。一方のは時々思い出したように吸うくらいのもので、禁煙しようと思えばできる程度の喫煙者だ。今持っている煙草を吸い終えたら、やめようかと考えたこともある。
「あと二時間か……仮眠していくか?」
「いや、いい」
「寝室ならすぐに使えるぞ?」
「気持ちだけもらっておく。だがはちゃんと休めよ。ジェイムズの話を聞く限り、丸二日は眠ってないだろ。俺より気力も体力も必要なんだ、せめて仮眠をとってから次に行けよ」
「秀一は相変わらず心配性だな」

「分かった」
 肩を竦めてみせる。も十分承知しているのだ。今更だが、CIAとの片を付ける計画に例の組織まで絡んでくるなど、面倒なことこの上ない。

 途端に静かになった室内で、煙を吐くのに乗じて軽く嘆息する。すると、赤井が静寂を破った。
「FBIから協力要請がなかったら、援護無しで偽装死を実行するつもりだったのか?」
「協力者はいるぞ。死んだの後始末だ。あれから逃走時の協力者も得られたし、今は秀一もいるから完璧だな。偽装死のあとの主導は当初の計画通り、伯父に移る」
「つまり偽装死自体は自分でやる計画だったんだな。まったく、無茶なことを考える」
 小言すら懐かしくて、つい頬が緩む。は指で灰を落としてから、ゆっくりと口を開いた。
「秀一なら、俺には他にもっと要領の良いやり方があったと思うだろう?」
 の問いかけに声は返ってこなかったが、椅子ごとくるりと回って振り向くと目が合った。
「分かってるんだ。なにもCIAに入る必要はない。相応の準備期間が必要だったのは確かだが、CIAに接触せずに情報を得る方法が無いわけじゃなかった。……それでも、これは俺自身にとって必要な過程だ。弔いと言うのもなんだが、父さんが見てきたものをこの目で見たかったんだ」
 淡々と、しかし穏やかに話すに、赤井はただ静かに耳を傾けていた。の口から語られる、自分が知らなかったの気持ちを。やがて赤井の顔に、複雑な感情が入り交じる笑みが乗った。
「気持ちは分かる。俺も、父親が関わった事件を調べては真相を追い求めているんだからな……」
 思わぬ吐露に、首を傾げて聞き返す。
「務武さん、何か事件に巻き込まれたのか?」
「おそらくな。俺がFBIに入ったのも、当時父が関わった事件を調べ直すためだ」
「……もしかして、例の組織への潜入もか」
「ああ」
 は赤井がFBIに入っていると知ったばかりで、ジェイムズを筆頭に日本での組織に対する捜査を担当していることくらいしかまだ情報を得ていない。
 正確に言えば、赤井の両親については昔から疑念を持っていたが。しかし例の組織にしろ赤井の両親にしろ、計画が完了していないうちは手を出すつもりはなかった。
赤井の現状を調べなかったのも、万が一にもCIAや他の組織にと接点があるという認識を与えないためである。
「組織が深く関わっているらしくてな。一般人では調べられないものも多い。の話を聞いているうちに、俺自身がFBIに入ることを決心した時のことを思い出した」
 赤井の口元が自嘲するような笑みに変わる。もその心境はなんとなく理解できた。決していい加減な決意で選んだわけではないし、決意は今も変わらないが、若さ故の過去の諸々も一緒に思い出されるのだ。
「務武さんが関わった事件か……」
 落ち着いたら一度調べてみようか。そう考えたところで、赤井が苦笑いを浮かべた。
「今、調べようと思っただろう?」
「少しな」
 隠すことなく答えると、やれやれと言うように赤井が嘆息する。
「気持ちは有り難いがな。お前も言っていたように、今は奴らに構わず自分のことだけに集中した方が良い。やつらはしつこいぞ」
「分かってる」
 十分承知しているからこそ、ずっと気になっていながら大切な人のことすら調べていなかったのだから。このタイミングで中途半端に余所の藪をつつくのは、無粋というものだろう。
「狙った獲物は必ず仕留める」
 そして、見事に逃亡犯を演じて散って見せよう。
 頷く赤井も良い面構えをしている。寧ろ赤井こそ、例の組織に対して強かに隙を狙っているに違いない。は興味深く思いながら、ゆったりと椅子に座り直した。



PREV|過去と未来の消失点 4|NEXT
2022.03.27(04.09修正) inserted by FC2 system

inserted by FC2 system