過去と未来の消失点

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 いざその時が来ると、また少し違う感慨が湧くものなのだと知った。
 全てのことから解き放たれたからか、まるで聖母のように穏やかな寝顔。は永遠の眠りについた母親を見つめながら、イギリスを離れて母親の母国に行き、静穏な日々を送ることも一つの選択肢なのだろうと思った。
 けれどやはり、父がやろうとしていたことを知りながら放置するというのは、心情的に割り切れなかった。すでに決まっていた心を改めて考えてみても、フェードアウトは中途半端で、選択肢としては有り得なかった。
 これが心残りというものなのかも知れない。静寂に包まれた室内で、しみじみと考える。果たせる見込みがあるから尚更だった。数年を掛けることになるが、にとって父親が生きてきた道のりを知るのは決して無駄なものではない。
 翌日、はイギリスを訪れた伯父と対面を果たした。手続きなどのほんどは予め母と伯父で済ませていたこともあり、伯父は難なく母方の親族の一人として葬儀を取り仕切ることができた。深夜には母方の親戚も合流し、教会で家族葬を行った。別荘から見えるこの教会は母親のお気に入りで、生前の両親と共に何度か訪れたことがある。にとっても思い出の場所だ。
 火葬を終えて、は伯父に断って丸一日を別荘で過ごすことにした。勿論、母が大好きだった場所で偲びたい気持ちも理由ではあったが、単純に一人になる時間が欲しかったのだ。
 結局、の決心は代わらなかった。別荘で一人過ごす間、母と作っていた最後の発明品を完成させ、誰よりも楽しんで開発に打ち込んでいた母への告別とした。

 もとより迷いはなかった。しかし、心地良い日常との別れはに喪失感をもたらすことになる。
 一旦伯父と別れて自宅に戻り、照明のスイッチを入れた時のこと。脳裏に蘇った暖かな光景に息をのみ、は呆然と立ち尽くした。皮肉にも、宝物のような幸福な思い出たちが失ったものの大きさを突きつけてきたのだ。
「……」
 母親との別れは覚悟していたものだった。誰も居ない家に帰るのも、一人で過ごすのも初めてではない。それでも、失うかもしれないのと実際に失ったのとでは違うのだと思い知った。
 コントロールはできていても、まだ円やかに解けきっていない感情が残っている。その尖りが胸の奥に落ち着いていたものに刺さって、小さな傷をつけた。
 笑顔が溢れていたあの頃。楽しく幸せな日々。は自分の定位置だった椅子の傍に立ち、そっとテーブルに触れた。向かいの席に父親が座り、その隣に母親が座るのが決まりだった。だからの記憶には仲睦まじい二人の様子が沢山残っている。
 家族だけではない。この椅子に座って、隣で笑い合った最愛の友人ともこれでお別れだ。事情を話すことはできないから、会わずに去った方がいいかもしれない。
 は眩いばかりの思い出を辿るように、ゆっくりと指を滑らせた。
っ!!」
「──!」
 唐突に飛び込んできた声で思考が途切れる。無音だった世界に何かを強く叩く音が聞こえて、つられるように振り向いた。
「……秀一?」
 焦った顔で必死に呼びかけてくる秀一を見て少し驚く。それでも、もう会えないと思った矢先の再会が嬉しく、冷えていた指先に温度が戻り始めた。目が覚めたような感覚の中で、無意識に瞬きを一つする。すると、家に戻ってくるまでの間に目に映った景色や、連なるように生まれた感情が蘇ってきた。
 別荘を出るとき、これまでの思い出を力に変えた。色づいた木々を見たとき、並んで立つ両親の笑顔を思い出した。好きな小説の宣伝広告が目に映った時には、自分と秀一の物語もずっと続いたらいいのにと思った──。
 秀一の手の中にある本を見て、胸が熱くなる。それと同時に気付いた。両親を失っても、友人と離ればなれになっても、どこへ行こうと、自分は一人ではないのだと。
 これから進む道がどんな道だとしても、全てを断ち切る必要はない。孤独である必要もない。新しい場所で、やるべきことができただけだ。
 ──俺がやりたくて選んだ道だ。
 力を貸してくれる人がいる。頼ってくれる人がいる。案じてくれる人がいる。かけつけてくれる人がいる。
 改めて気付いた時、は不思議なほどに穏やかな気持ちになれた。覚悟というものは、自分を追い詰めるものではないのだ。そんなことは、とうに分かっていたはずなのに。
 大切なことを思い出させてくれた秀一に思い切り抱きついてやれば、慌てた手がしっかりと受け止めてくれた。慣れた体温と呼吸が伝わってきて、に教える。お前は一人ではないと。
 
 秀一を見送った翌日、母方の親戚からの申し出もあり、自宅の整理を手伝ってもらうことになった。
 今後の管理についても速やかに話が整ったのは、母親が自ら終活と称していたもののお蔭だろう。自宅は借家だったが、別荘は母が土地を買い取って建てたものなので遺産でもある。生前に手配していた通り、が成人するまでは親族が管理維持することになった。
 自宅と別荘に別れを告げた後、アメリカに向かうために伯父と合流。近況を確認し合ったところで、伯父が小さな箱を差し出した。
、ここにきみの新しい身元についてのデータが入っている。名前は。アメリカ合衆国出身で、年齢は実年齢と同じく十五歳。家族構成や来歴も含めて、以前にきみを交えて話し合った通りの人物になっているはずだ。念のために詳細を確認しておくように」
「分かりました」
 箱を開けると、メモリが一つ入っていた。タブレットにデータを移して見てみると、の過去や家族についての情報だけではなく、以前から相談して決めていた今後の活動についてもまとめられていた。
「予定通り、スクールに通うことになるんですね」
 入学予定のスクールは名門の部類で、監察対象を親に持つ生徒が一人在籍している。もう一人が入学予定になっていて、伯父側の人間の親族も在籍中だ。つまりは、修学を兼ねた諜報とコネクション作りである。学力レベルは高いので、にとっても充分利になる選択だった。
「きみの成績を参考にして、の過去の成績を作っておいた。試験もきみなら余裕をもって通るだろう」
 伯父の言葉に苦笑いが漏れる。勿論落ちぶれるつもりは毛頭ないが、これは期待されているのだろうか。正当な評価なのだろうが、にこりともしない強面の男に励まされている図が少し可笑しかった。
 伯父は弟であるの父親と違って、表情筋があまり機能していないタイプだ。勿論、父親もいつも朗らかに笑っていたわけではないし、表情や感情のコントロールに長けていたが、伯父はおそらく素で表情が動いていない。
「先ずは学生生活に集中するといい。身元は偽りでも、諜報のための入学だとしても、きみが学生であることは変わらんのだ」
「そうですね。こんな機会は滅多にないでしょうし。精一杯、満喫することにします」
「その意気だ。今までスクールには通っていなかったようだが、きみの社交性があれば充分だろう」
 社会的な立場も相まって厳しい人だが、見る目は確かだ。そんな人物が認めてくれ、信頼してくれている。それと同時に、身内としての将来を考えてくれているのも確かだった。血縁であることは極秘事項だが、事実上の後見人は伯父だ。
「有難うございます」
「なに、伯父として当たり前のことをしたまでだ。おおっぴらに甥自慢ができなくて残念なくらいだよ。……それに、感謝したいのはこちらも同じだ」
 伯父に協力することになったのは、が父親の死について疑問を持ち、伯父に尋ねたのが始まりだった。父の死後、伯父から連絡があった時のことだ。
 実弟から常々愛息子について話を聞いていた伯父だったが、それだけでを信じたわけではない。下調べは既に行われており、と直接話をして最終的に判断したのだと後で聞いた。そうして伯父は、当時父が関わっていた捜査や死んだ時の状況について、明らかになっていたことを話してくれた。
 ただ、当時は父の死に対するCIAの関与についてはまだ分かっておらず、自身が真相究明することを申し出ることになる。
「あの事件に関するCIAの動きも判明した。なにより、曖昧なままだった弟の最期を知ることができた。きみには感謝している。……先日、きみから要望があった例の子どもの身元が、ようやく掴めたよ」
 父親が死んだ時に現場に居合わせた人物たちを特定し終えた際、身を挺して庇った子どもが無事でいるか調べて欲しいと頼んでいたのだ。
 ずっと気になっていた。現場を中心に膨大な防犯カメラの映像を調べる中でのことだ。そうとは気付かれないように、子どもを庇って銃弾に倒れる父の姿を見つけた時から。一般人に銃口が向けられて選択肢が限られていたとはいえ、あの父親が致命傷を回避できないものなのだろうか、と。
 詳しく解析してみると、別方向からも狙われていたことが分かり、やむを得ない行動だと言えた。しかしそれでも、通常ならば死に至る行動は避けるのではないだろうか。そんな疑問が消えなかった。
 そういうこともあり、父親が守った子どもがどう過ごしているのか確かめることは、にとって父の生き様を辿る最初の一歩だったのである。
「あの子は、今も変わらず平穏に暮らしていたよ。去年からはスクールに通い始めて、母親が送迎しているらしい」
 説明しながら、伯父は一枚の写真を取り出して見せてきた。
「これは……」
 写真を見たは、あることに気付く。胸の奥にしまったものが鼓動するかのような錯覚を覚えた。
「まさか、父さんは」
父親が最後に何を考えていたのかが、分かった気がした。
「気付いたかい。そういうことだろうね」
 伯父の声色も穏やかで柔らかい。よかった。知ることが出来てよかった。は暫く写真に写っている子どもを見つめた後、そっと瞼を下ろした。
 ──父さん。
 暗めのブラウンの髪に、青みがかった目。母親と楽しそうに話している子どもは、どことなく幼い頃のに似ていた。
「これを見た時、私は弟の行動の意味がようやく理解できたのだよ」
「俺もです。……知ることができて、よかった」
 亡き父を想う。自然と心からの言葉が漏れた。そんなを見ていた伯父も同意するように頷く。
 結果的にの父親は死んだ。そこにどれだけ愛に溢れた事情があろうとも、それは変わらない。けれど彼が命を賭けたものが何だったのか分かった今、その選択を疑う気持ちなど消え去った。
 は顔を上げて、澄み切った空色が広がる窓の外を見た。まるで晴れやかな心の中を表しているかのような景色だ。
 この顛末に至る元凶を作り出した人物たちのことは、きっと一生許せないだろう。そんな輩がのうのうと生きていて、父が命を落とすことになったのも悔しい。
 しかし父が最後にとった行動は、一人の父親のもの。の中に燻っていたものを消してしまうほど、愛情深いあの父親らしいものだった。
「今更ではあるが……きみのような子どもに協力させるなど、とても褒められたことではないということは重々承知しているんだ。本来は我々大人が守るべき存在なのだからな。だが、それでも私は、きみの力が必要だと判断した」
 のことを認めている証拠だ。伯父に頼られるということが、どれほどの状況かは理解しているつもりだ。それに、言葉の端々からを案じているのが伝わってくる。
「きみに感謝を。そして、これから宜しく頼む」
「こちらこそ宜しくお願いします。……ですが、一ついいですか?」
 は真っ直ぐに伯父を見上げた。
「なんだね?」
「俺は、協力を強いられたわけではありませんよ。自分で望んで選んだんです。この道をね」
 ほんの僅か見開かれた伯父の目には、有無を言わさぬ堂々とした様子で、力強い眼差しを向ける少年が映っていた。


5



 会場は厳かな空気に包まれながらも、パーティーが進行していくうちに和やかな雰囲気が生まれていった。
 は予定通りに監視の隙をついてビル内に侵入すると、護衛でもある側近の一人を誘き寄せて襲い、空き部屋に引きずり込んで拘束。予め用意していた変装を施して成り代わった。
 何食わぬ顔で会場に戻ると、主催者として振る舞っているマクレガーを視界に入れる。
 ──大体は予定通りに進んでいるな。
 華やかな宴も、目玉が終わると後は親睦会のようなものだ。舞台裏では粛々と取引の準備に移っている。そのお蔭でスタッフを始め人の出入りがあるのは、潜入する必要があったにとっては都合が良い。
 そろそろマクレガーが動く頃合いという時、インターカムが音を発した。
が消えたことがバレた。これから館内に入る』
 赤井の声だ。知らせを聞いたは内心で拍手を送る。
『了解』
 ダミーの潜伏先を見つけ出した時にも思ったが、赤井が組んでいるパートナーは頭が回るようだ。が姿を消してからまだ精々十五分しか経っていないというのに、ホテルから出ていることに気付くとは。
 ──ああ、来たな。
 マクレガーの側近であり右腕の男が、何事かをマクレガーに耳打ちした。は控えていたもう一人の護衛と共に二人の後に付き従う。その際、マクレガーを見張る目の存在を確認することを忘れない。
 赤井によると、監視メンバーも本来の予定通りに動いているようだ。赤井から聞いていた特徴に似ているので変装はしていないのだろう。分かりやすくて有り難いことだと、内心で皮肉を送る。組織の動きには細心の注意が必要だが、確実な情報を得られるのは頼もしい限りだ。
 今朝未明に、赤井から連絡があった。組織は必ずしも取引を成立させる必要はないと考えていること、赤井は今まで通りの監視をするという旨だった。
 取引についてはほぼ確信していた。組織側が望んでいた取引ならばともかく、腹に一物を抱えているマクレガーと正当な取引が成立するとも思えないからだ。
 実はも、もとより両者が勢揃いするまで待ってやるつもりはなかった。に至ってはCIAにも注意しなければならないので、お利口に”待て”をしても利はない。このことは赤井にも伝えており、マクレガーが保管場所からウイルスサンプルを出した時が本当のミッションスタートだ。
 ホテルに移動中、またインターカムが受信した。
『邪魔をするようなら始末しろと指示が出た』
 ──ほう。
 微妙に条件が入っていることを意外に思う。もしや、まだ勧誘を諦めていないのか。しかし状況としては悪くない。赤井がの監視担当のおかげで、追跡にかこつけて堂々との後を追いながら動くことができるのだから。


 マクレガーと最側近の男を先頭に、最上階フロアの部屋に入る。ともう一人の護衛兼側近は、そのまま左と右に別れて、ドア付近に留まった。先頭を歩いていた二人は真っ直ぐに部屋の奥まで進む。
 ウイルスサンプルは保存環境の維持のため特殊なケースで管理されており、そのケースごと金庫の中に置かれていた。が調べた時から変更はないようだ。
 マクレガーが金庫の前に立った時、は右腕の男の意識が僅かに彼のインターカムに向かったのを見た。
「客人が到着されました。こちらに向かっています」
 取引相手である組織側の代表が到着したようだ。側近が伝えると、マクレガーは大きく頷いた。
「時間通りだな。さて、我々も行こうか」
 センサーキーと顔認証を照会して、金庫のロックを解く。ほんの僅か、同様にドア付近で待機している側近が反応した。本人も自覚していないほど微細なものだが、は気付いた。
 ──動く。
 読みは当たった。コンマ数秒、男が拳銃を構えた。銃口はマクレガーに向いている。しかしがそれを見逃すはずもなく、男が引き金を引くよりも早く撃つ。
「──ッ!」
 手の甲への衝撃で拳銃は呆気なく吹き飛んだ。冷静にマクレガーを庇う右腕の男を視界の端に捕らえながら、死なない程度の場所にもう一発を打ち込む。
「ぐッ……」
「……おやおや」
 マクレガーは突然のことに表情を変えながらも、比較的落ち着いた様子で言った。
「スパイですね」
「どこの輩か分かるか?」
「おそらく、以前にも嗅ぎ回っていたCIAのエージェントでしょう。動きに既視感がありました」
 は証拠を見せつけるように男の髪を引っ張り上げ、作り物の”皮”との境目を見つけると、躊躇なく剥がした。予想通り、ウイルスサンプル回収作戦班の一人だった。
 流れ出る血液が絨毯に染み込む。闇雲に抵抗せず、反撃の隙を狙っているところは流石だ。
「身内だったか。悲しいことだな」
 芝居がかった仕草で嘆くマクレガーとは逆に、彼を護るように立っている右腕の男は警戒を強めた。その判断は正しい。はまるで何気なく髪を払うような軽いモーションで、まだ下ろしていない拳銃の銃口を向ける。
 バシュ
「まあ、それは私もですがね」
 空気を切るような音がした直後、乾いた音が響く。右腕の男が放った銃弾は天井へ。マクレガーが側に置いているだけあってこの手の応酬に慣れているようだが、の先を行くことはできなかったらしい。
は反撃の余地を与えないよう追い詰める。側近の男の足を撃ち抜くと、ふらついたところを勢いよく蹴り飛ばした。
「なっ──」
 この間数秒。マクレガーが絶句する。慌てて懐から拳銃を取り出すが、さすがにエージェントや護衛のようにはいかない。
「貴様もスパイかっ」
 照準も合わないままに発砲するマクレガーは、先ほどとは打って変わって動揺していた。不自然なほど見開いた目がを凝視している。乾いた音が二発続いたが、平常心を失っていてには掠りもしない。
「無駄撃ちはやめろ。やかましい」
 言うや否や、は己の顔に触れた。その流れにまま他人の顔を剥ぎ取る。仮面の下から現れるたのは、その人だ。
「おまえ、は……」
 エージェントの男が目を見開く。呻くように漏らした声を無視して、は体型を変えるために身につけていたスーツを脱ぎ捨てた。
 普段の任務ではこんなことはしない。今回はであることを印象付けなければならないので、敢えてこのタイミングで姿を晒すことも計画の内なのだ。
 仲間に通信を送ろうとしている男に気付いたが、止めはしない。暗殺班が追いかけてくるように仕向ける手間が省けて都合が良いだけだ。
 無表情のままマクレガーを一瞥すれば、尋常ではない汗が噴き出していた。
「くそっ」
 本来ならば、ここまで狼狽する性格ではない。しかし護衛は二人ともスパイの変装で、最側近が使い物にならなくなった今、マクレガーを守ってくれる存在はもういない。薬物で精神を侵されているため、一度錯乱し始めるとおしまいだ。
 は扉が開けられたままの金庫に近付いて、中に入っているもう一つのケースを取り出した。これが本物のウイルスサンプルが入っているケースだ。脂汗をかき始めたマクレガーからキーを奪い取り、テーブルの上に置く。
「な、なにを……やめろ、それは!」
「ウイルスなんだろう?」
 組織の手に渡すつもりは更々ないが、CIAの切り札にくれてやる気もない。
「だから開けるんだよ」
「やめろ、やめろ、やめろ!! それに触るんじゃない!!」
 もとよりウイルスを奪取したらその場で無効化するように指示されているので、手を止める気はない。
 はキーをかざしてロックを解除すると、中に入っているバイアルを手に取った。懐からウイルスを無効化──つまり死滅させるための薬品が入った注射器を取り出し、速やかに注入する。途端に液体の色が変わり、中身が変質したのが分かった。
「あ、ああ……ああああ……」
 マクレガーが絶望する。悲壮な表情で膝から崩れ落ちるが、知ったことではない。ウイルスが死滅すれば、今度はの計画の番だ。
『無効化完了。ターゲットは拘束』
 インターカムは赤井とジェイムズに繋がっている。マクレガーを拘束したは、返事を待たずに次の行動に移った。ドアに耳を近付けて気配を探る。
『了解だ』
 ジェイムズからすぐに応答があったが、赤井からはない。返事がないということは、もう一人の監視役と一緒に動いているのだろう。
 は廊下の気配を窺った後、素早く部屋から出た。廊下に出てから間もなく、通り過ぎたばかりのエレベーターが背後で到着を知らせた。品の良い音も今夜ばかりは警笛と同等だ。は通路の死角に身を潜め、様子を窺う。
 エレベーターから出てきたのは二人。赤井と、おそらくは組んでいるという組織のメンバーだ。マクレガーと側近、CIAエージェントを残してきた部屋に向かうつもりかと思ったが、FBIの方が早かった。同じ階の非常口スペースで待機するように言っておいて正解だった。組織メンバーの二人が死角に身を隠す傍ら、ジェイムズの部下たちがマクレガーらのいる部屋に突入する。
 ──間に合ったか。
 はFBIが組織よりも先に突入したのを確認すると、予定通りにこの場は任せることにした。

 非常時通路を利用して、関係者以外立ち入り禁止エリアを進む。逃走用に確保した部屋に入り、備えておいた道具を取り出した。インターカムを取り替えて、動作を確認するために伯父と通話を試みる。
『聞こえます?』
『──ああ。位置も把握できている』
『では次に移ります』
『了解だ。ウイルスの死滅は確認した。よくやったな。こちらは既に動いている。だが暗殺チームのエージェントたちが街にもいるはずだ。引き続き注意するように』
『了解』
 通話をしながら逃走用の防弾スーツを着込み、携帯武器を装備する。ゴーグルや携帯武器は荷物として詰め込んだ。通信を終えたところで腕時計に触れる。ホログラム機能を使い、利用客に扮して館内を移動した。
『──こっちは二手に分かれた。外の連中は伝えていた通りの配置だが、監視役はお前の追跡に回ったから気をつけろ』
 赤井からの通信は返事を待たずに切れた。も不自然な動きをしたくはないので、丁度良い。偽装死計画に移ったら、互いに一方的な現状報告になるだろうというのは予想していた。
 ホテルを出て暗がりに向かい、ホログラムを解く。近くに用意していた車に乗り込み、先ほどは付けられなかったゴーグルや武器を装備する。エンジンを掛けたところで、再び赤井から通信がきた。
『車に乗り込むところを見られた。五秒でビルを出る』
 ──今のところは読み通りだな。
 言い回しから、赤井ではなく組んでいる組織メンバーが目撃したのだろう。の車が走り出した直後、ホテルから出てきた見知らぬ男と目が合った。後ろから駆けつけた赤井。街のネオンと行き交う車のライトが、互いの視線を導くかのように結ぶ。
 目の前を通り過ぎた瞬間、赤井が動いた。運転席の直ぐ後ろを弾丸が突き抜ける。
「強烈だな」
 FBIのくせにサイトを見ずに撃つとは。しかし、これで諸星大が組織の指示に忠実だと印象付けることができた。隣の男も直ぐさま攻撃してきたが、も簡単にやられるつもりはない。ハンドルを操作して躱すと、前後を走る車に紛れてスピードを上げる。
 後ろで赤井が通行人のバイクを奪って跨がるのが見えた。猛スピードで追いかけてくる。置いて行かれたメンバーは車に乗り込み、回り込む気なのか、赤井とは別の路地へと消えた。
 は先回り場所を予測する。みすみす乗る気はないので、一気にタイムズスクエアを通り過ぎ、一際目を引く超高層ビルの前で道を逸れた。
 更に車を走らせて目当てのビル裏に停まる。そこで速やかにバイクに乗り換えて、隣の通りの流れに混ざり込んだ。走行しながらバックミラーを確認すると、後ろの交差点を赤井のパートナーが乗った車が横切った。それとほぼ同時──正確には、もし先程の男ががいる方へと来ていたなら二人の間に割り込むことになっただろうタイミングで、赤井が真後ろに現れた。
『少し近すぎたか』
『よく言う』
 うっかり近くまで詰め過ぎたという体で言っても、他のメンバーに攻撃させないようにと割り込んできたのは分かっている。
『俺を護りすぎるなよ』
『ふむ、なかなか難しいものだな』
 とはいえ、この距離で追跡しながら互いに何もしないのは不自然だ。は赤井を牽制することにし、素早く銃を構えた。
 の攻撃を回避して反撃する諸星だったが、そのために距離が開いてしまったという茶番を繰り広げる。その時、妙に幅寄せをしてくる車が視界に入った。
『CIAだ。一旦離れてくれ』
『了解』
 暗殺班のエージェントだと気付いたは、応酬の末に再度赤井を牽制すると車体を傾けて角を曲がる。
『気をつけろ』
 路地に入る直前、バックミラー越しに赤井と目が合った気がした。

 エージェントたちの位置を確認して通行止めエリアに入った。素早くゴーグルと防音をして、閃光弾を取り出す。
 ──来たな。
 思惑通りを追って路地に入ってきた。開けられた窓から、二発の銃撃が襲う。それを避け、適度な距離を維持したまま中間地点まで進み、閃光弾のピンを抜いた。後ろに放ると同時にスピードを上げる。
 約一秒後、爆発音と共に周辺の十五メートルほどが一瞬にして光に包まれた。車内であっても防音できていないため、影響は避けられない。車は壁に衝突し、周辺から狙っていたエージェントも一時的に動きを止めた。
 ──三人か。
 車に二人、後方に一人を確認したは、再び大通りに出て行き交う流れに乗って先を目指す。そう間を開けることなく赤井が背後に現れたが、他のスナイパーたちの姿はない。
 ──さっきの通りで巻き込んだか?
 いや、影響が出る範囲には人はいなかったはずだ。それでも、の追跡に回ったというスナイパーたちも追っているなら異変に気付いたかもしれない。否、そう仮定する方が自然だろう。元より合図でもある。ぜひとも気付いて追ってきて欲しいものだ。
 この逃走劇は、いかに自然に最終地点まで誘導するかが問われる。エージェントたちに対して数分の時間稼ぎに留めたのも、最終地点に辿り着く前に追いつかせるためだ。CIAと例の組織には、が死ぬ瞬間を目撃してもらわなければならないのだから。
 背後で赤井の仲間が追いついてきたのを見て、やはり頭が回るようだと口端を上げる。赤井が攻撃に専念できるよう、車を調達して追いついてきたのだ。CIAより出来る男なのではないだろうか。
 はこの状況を最大限に活かしてやろうと内心で誓う。ここからは一分一秒が鍵になるだろうと改めて確信して、ブルックリン・ブリッジ方面に向かって速度を上げた。


 赤井の狙撃の腕は素晴らしいものだった。チャイナタウン付近でのバイクのタイヤに命中させると、放り出して走るの足元にもう一発を撃ち込んできた。
 これは計画的なものだが、だからこそ必要な能力だった。が追い詰められていく状況を作り上げる上でとても重要だ。
 ただ、強いて問題を挙げるとすれば、が掠り傷しか負っていないところだ。計画を説明した時に、擦過傷程度は負っても問題はないと告げたのだが、今のところは全て回避している。その上、序盤で怪我を負うと後に響くからと、赤井が絶妙に加減をしているのでお察しだ。
 互いの力量が想像以上に優れていたがために、ここまでほぼノーダメージできてしまった。それはそれで悪くはないが、あまりにも余裕を見せつけると、ラストの顛末が茶番になりかねない。
 やはり最後の時までに銃撃戦は挟んだ方が良いだろう。そう考えながら、路肩に停めてあるバイクを奪って猛スピードで距離を取った。赤井の攻撃を食らうならば、橋の上が一番の見せ場だ。
 ブルックリン・ブリッジが目前に見える場所までくると、ビル街を抜けたことで更に視界が開けた。暗闇に染まった景色の中で、ライトアップされた橋が色付いている。ブルックリン側から見ていたなら、マンハッタンの美しい夜景が視界いっぱいに広がっていただろう。
 猛スピードで橋に突入する間際、”協力者”から通信が入った。
『最接近まで三十秒』
『了解』
 は短く返事をしてブルックリン・ブリッジを走り抜ける。ここで待ち合わせているのは夜間ツアーに見せかけて呼び寄せたヘリコプターだ。
 仕掛けの一つで、人選については相手の方から伯父に打診があった。実は周辺の車や観光客も仕掛けの一部で、一般人ではない。この一帯は既に偽装死計画の舞台になっているのだ。今更だが、人脈というのは本当に重要だ。
 ──お目見えだな。
 後ろから追ってくる赤井たちが、を逃がすまいと速度を上げてきた。たちまち銃撃が始まる。
 ここで追いつかれては具合が悪いので、は迷わず彼らの車のタイヤを撃ち抜いた。途端に言うことを聞かなくなった車が大きく揺れる。それでもクラッシュすることなく、けたたましい音をさせながらも急停止させたのは敵ながら見事だ。
 は赤井が外に出たのを見て、すかさずバイクから腰を上げる。立ち乗りに近い体勢になると、運転席のドアを盾に撃ってくる男めがけて蹴り放した。バイクは勢いのまま横転しながら滑り飛んでいき、斜めに通路を塞いでいた車に激しく衝突。爆音が響き渡る中で、は欄干に駆け上がって走り続けた。
 しかし次の瞬間、銃弾が太股を抉った。カッと熱くなるような感覚の後、踏み込んだ右足に激痛が走る。
 ──秀一じゃない。
 気付いたが、は構わず走り続ける。3、2、1、と最接近するのを見計らってジャンプした。ヘリコプターから下ろされたベルトめがけて飛び移る。勢いを利用してUの字部分に足を掛け、腰の金具とベルトの接続部を固定した。
 橋を見下ろすと、赤井が遠距離射撃に備えてライフルをのぞき込んでいる。照準は計画の通り、ヘリに向けられているのだろう。
 が拳銃を構え直すと、弾丸が空気を切った。これも赤井ではない。そこには二つの黒い影があった。赤井と組んでいる男が、彼らに向かって声を荒げている。今もライフルを構えている方がを撃った人物だろう。
 はすかさず銃口を向けた。邪魔者は消えろと、的確に銃弾をお見舞いする。を狙っていたライフルが向きを変え、スナイパーが肩を押さえて傾いていった。
 はその隙に素早くベルトを伝って畿内に入る。それを合図として、操縦役はヘリコプターをオート機能に切り替えた。はその間に腰の金具から接続部を外す。
 機内に備えておいたワイヤーロープをそれぞれ手に取り、固定し終えたところで開け放ったままのドア付近に移動するすると、操縦役と共に橋の反対側へ飛び降りる体勢を取る。
『撃つ』
 赤井の声とほぼ同時、弾丸がエンジンを貫いた。しかし破損した機体が異変を訴えるより早く、ガン、と何かがぶつかってきた。それが跳んでくる瞬間を見ていたは、瞬時に理解する。
「──手榴弾だ!」
 足場を蹴って、本来のタイミングよりも早く操縦役と外へ飛び出した。直後、手榴弾が爆発。ヘリコプターは想定を遙かに上回る爆発を引き起こした。
 CIAの仕業だ。を木っ端微塵にできる機会を狙って、待ち構えていたのだ。は口元が引き上がるのを自覚した。
 爆風で押された体は凄まじい勢いで吹き飛ぶ。あらがうことなく身を任せた二人は、ネオンが届かない暗闇へ飛ばされていくのみ。
 ぶつからないように位置の調整をしながらのダイブは、想定以上のスリルを伴って体験することになってしまった。特注のワイヤーロープで威力をいなしながらの行為とはいえ、この高度と勢いは半端ではない。
 指で下を示すと、相手も了解の合図を返してきた。ワイヤーロープを放す直前、は受け身の体勢を整えながらブルックリン側に視線を向ける。川向こうから二度、チラリと光が瞬いた。
 ──後は頼んだぞ、本堂。
 派手に墜落したヘリコプターにかき消される形で、たちは人知れず川の中に落ちた。


 ◇◇◇


 炎に巻かれて落下していく機体を見つめながら、赤井は怒りにも似た激情がふつふつと湧き上がるのを感じた。頭に血が上る類いではなく、昂ぶった感情は煮詰まって腹に留まり、冷静さを保ったまま冷たくなっていく。
 街の方から警察車両のサイレンが近付いてきた。行こうと声を掛けてくる監視役に同意して、赤井はライフルをケースにしまった。もうここでやることはない。撤退だ。
「見事な腕前だな」
 によって肩を撃ち抜かれたメンバーと目が合った。嫌味な響きを隠しもしない声が耳に届く。普段なら構うような相手ではないが、醜態をさらした人間に茶化される謂われはない。
「横から手を出しておいて、無様にやられてりゃ世話ないな」
「……なんだと?」
 顔を顰めて不機嫌を露わにする男。しかし赤井はそれ以上煽ることはせず、ケースを背負って歩き始める。
「アレは俺の獲物だ」
 底冷えするように冷たく鋭い視線で射抜く。赤井に言い返そうとしていた男は、殺気を滲ませる赤井に気圧されて口を噤んだ。後ろから今回組んでいた男が追いかけてくるのも構わず、橋の上を歩く。
「ヘリは落ちたようだが、はどうなった?」
 破片が浮かぶ川面を見つめていると、ジンが問いかけてきた。
「あの爆発で生きているとは思えん。ヘリと一緒に空中で木っ端微塵だ」
 赤井は言いながら思う。どう考えても狙撃の影響で起こった爆発の威力ではなかった。ヘリコプターを撃った直後に何かがぶつかったような音が聞こえたのは、気のせいではないはずだ。
 かといって、ほとんど暗闇に近かった上空は目視では限界があり、何があったのかは定かではない。
 元々ヘリコプターの爆発を隠れ蓑にして橋とは真逆に飛び降りる計画だったこともあり、赤井たち追手側から生存確認ができないのは当然のことだった。
 の無事を確かめようにも、今頃はとうに川の中に落ちているだろう。そして赤井も、組織のメンバーたちを前にして通信などできるはずがない。上手く逃げ切ったと信じるしかない。
 だが、やはりジンは証拠も無しに容易く判断する人間ではなかった。赤井が通り過ぎたあと、後ろで指示を出す声が聞こえてくる。
「川から上がってくる奴がいないか確かめろ。FBIに探りを入れて、の安否を確認してこい。それからCIAもだ。やつらが匿っていないか確認しろ」
 ──疑り深いやつだ。
 が偽装死を実行した後は仲間が処理をすると聞いている。心配はしていないが、この組織のたちの悪さは知っている。まだ把握し切れていないことだらけの組織だからこそ、楽観視できない。
 後ろを見遣ると、どうやら監視役の片割れが情報収集を任されたようだ。適任だが、その情報収集能力や洞察力は群を抜いている。は赤井のことを褒めていたが、この新入りも相当だと思うのだった。
 赤井は今度こそ彼らに背を向けて、一片の綻びもなくたちの計画が完了することを願った。


 翌日、街中での騒ぎは朝からニュースになっていた。世間では対立関係にあるギャングの抗争ということになっている。
 被害者の一人としての死亡が報道されたのは、ブルックリン・ブリッジでの出来事から一週間後のことだった。捜査はFBI主導の下で行われ、ヘリコプターの残骸の回収と併せて、搭乗していた二人の捜索を実施。の思惑通り、は一般のツアー客として扱われた。
 勿論、今回の計画に深く関わったジェイムズは偽装死であることを知っているが、表向きは無関係でいなければならない。FBIは街で起こった銃撃事件や閃光弾による爆発などの捜査をする形で関わることになった。
 その結果、という一般人が、ギャングの抗争に巻き込まれて操縦士ともに犠牲になり、死亡したという結末を迎えたのだった。
 死亡と断定されたのは爆発の威力も関係しているが、決め手になったのはイースト・リバー沿いで発見された遺体の一部だ。身元を特定するためDNA鑑定をしたところ、のものであるという結果が出た。操縦士についても同様で、片腕の一部を発見。遺族にも伝えられたという。
 この報道は組織のメンバーが調べた情報とも一致していて、漸くジンも納得した。取引は失敗に終わったが、何らかの情報を得られたようで、それが返って薄気味悪い。
 CIAと繋がりをもっていたを亡き者にしたことを評価され、取引失敗は不問。にとどめを刺したことになっている赤井──諸星大はコードネームを与えられ、組織の深部に近付くチャンスを得ることとなった。

 赤井はデスクでペンを走らせながら、のことを考えていた。発見された遺体の一部というのが、用意された証拠であることを信じるしかない現状が、どうも落ち着かない。
 疑っているわけではないのだが、ヘリコプターに移る前にが負傷していたのは事実で、更にあの爆発。本当に体のどこかを損傷していてもおかしくはない威力だった。
 が言っていた偽装死の後の協力者が上手く事を運んだからこそ、抗争の被害者として報道されていることは理解している。だが、今どうしているのか確かめる術がないのがもどかしい。
『続いてのニュースです。××××カンパニーのトップ、リチャード・マクレガー被告の取り調べが──』
 聞こえてきた音声に釣られるように、何気なくテレビモニターを見る。そこには、そろそろ見飽きてきたマクレガーの顔写真と、汚職についてのテロップが表示されていた。
 あの日以来、ニュースの特集はマクレガーに関するものがほとんどだ。汚職による逮捕ということしか分かっていない時点でも既に大々的に報じられていたが、限られた人物しか知らないだろう違法薬物の摂取がリークされて、火に油を注いだ状態になっている。
 逮捕が自社の記念パーティー当日だったこともあり、連日に渡って盛大なゴシップネタになっていた。今日も相変わらず、その話題で持ちきりというわけだ。
 赤井は興味をなくしたように視線を手元に戻した。徹夜で書き上げた報告書は、ジェイムズに提出するものだ。
 今は組織に潜入している身だが、を仕留めた件で組織での立場が変わりそうなので、目を盗んで動けるうちに事務仕事を片付けにきたのだった。
「どの局も、このニュースばかりだな」
 所用で出かけていたジェイムズが、部屋に入ってくるなり言った。いつも通りの落ち着いた態度でニュースに目を向ける彼の手には、いくつかの書類。もう片方の手には大きめの封筒が二つと、手紙サイズの封筒が見えた。
「マクレガーの取り調べは午後に予定されているそうだ」
 赤井は視線だけで応える。ジェイムズはそんな赤井に言葉を続けた。
「弁護士と念入りに面会したようだが、今回ばかりはそう易々と逃げることはできないだろう」
「だといいがな。なかなか厳しいと聞いたぞ」
 汚職を始め、裁かれるべき案件であってもマクレガーは用意周到に証拠を隠滅している。しかも、政府上層部が命じてCIAが動いていた案件が多々あるため、立証は極めて難しいとされてきた。今回は上層部から見放されたようなので、確かに簡単には逃げられないだろうが、汚職を追っている班が確実な証拠を手に入れたという話も聞こえてこない。
「そっちはどうだ?」
 ジェイムズが担当したウイルスサンプルに関する一連の事件は、汚職などの案件とはまた別の次元の問題だ。マクレガーが自供しようが、まず表沙汰にすることすら大きな壁がある。
「この件に関しては、”彼”らの協力で強力な切り札を得ることができた。我々が集めた証拠と併せて、マクレガーの悪事に終止符を打つ」
「切り札?」
「今朝、私の元にこれが送られてきてね」
 ジェイムズはそう言って、スーツの内ポケットからUSBメモリを出して赤井に見せた。
「まさか、アイツがこれを?」
 アイツとはのことだ。彼が捜査に協力していたことは赤井とジェイムズしか知らない。しかもこの度の事件で名前だけは知れ渡っているので、伏せて会話をすることになる。
 しかも赤井はの正体がという幼馴染みであることも隠さなければならないため、偽装死が成功した今も本人の希望通りに、交換条件を機に知り合った人物として話していた。
「マクレガーが犯した幾つかの不正に関する証拠とその関係者、研究員殺害を命じた証拠と、裏取引の経緯や接触した組織グループの一覧が入っていたよ」
「……やってくれる」
 思わず苦笑いのような笑みが浮かんだ。あの逃亡劇の後で用意したわけではないだろう。おそらく、始めからこのタイミングで届けるつもりだったのだ。
「だがまあ、確かにそれくらいはやってのける奴らだったな」
 この度、CIAも大きく動いた。赤井を始め、ジェイムズや元副長官。今回の件でと関わった者たちは、次期大統領候補や現政府高官、現CIA長官など周辺の人事の動きで、上層部の思惑はある程度は察しがついた。さらに後日、水面下でかつてのCIA長官の疑惑が冤罪であると認定。の父親がCIAに所属していた当時、濡れ衣をきせられた長官の潔白がようやく証明されたのだった。
 しかし一方で、赤井らが追っている組織が絡んだ陰謀は、未だに掴み切れないままだ。組織の目的が何なのか、全容を暴くどころか、大まかな全体像も把握し切れていない。
 赤井は書き終えた書類を軽く整えると、時刻を確認して椅子から立ち上がった。
「もう行くのかね?」
「どうにも、このままにしてはおけない野暮用があるものでな」
 そう言って書類を手渡してくる赤井に、ジェイムズは一つ頷いてから受け取った。そして赤井が部屋を出て行く間際、「実は、きみ宛ての手紙を預かっていてね」と声を掛ける。
「……手紙?」
 ジェイムズの手には、先ほど目に留まったレターサイズの封筒があった。差出人は書かれていない。切手も消印もない。
 紙ではないものが入っているようで、封筒が不自然に膨らんでいる。今の話の流れから考えると、自ずと脳裏に浮かび上がる差出人の顔。
「これをどこで?」
「駐車場だ。偶然にも、元長官が本部を訪れていてね」
 偶然。そんなわけがないというのは、ジェイムズの口調からも伝わってきた。つまり、元FBI長官がから預かった手紙を直々に届けにきたということだ。
「まったく、とんでもない奴だな」
「元長官が本部に用があったのは確かなようだがね。まあ、そういうことだ」
 もうきっと、誰と親交があろうが驚くことはないだろうとさえ思う。
「書類は確かに受け取った。暫くまともに休んでいないだろう? 今日はもう帰って休むといい」
 ジェイムズの配慮に苦笑いを浮かべる。きっと赤井が言った野暮用というのも察しがついているのではないだろうか。
「そうさせてもらおう」


 ジェイムズと別れて人通りの少ないところまで移動し、封を開ける。中身は封筒と同じ色合いのメッセージカードで、表にUSBメモリがテープで貼り付けてあった。カードはよくある二つ折りのタイプで、メモリをテープごと剥がしてから中を開く。
 “また会おう”
 黒のペンで書かれた短いメッセージ。几帳面に揃えられた見覚えのある筆跡は、送り主の正体を察するには充分だった。
 赤井の目元が僅かに緩む。やはり差出人はだ。間違いない。また会おうという一言に、これほど癒やされる日が来ようとは。殺伐とした日々に慣れた赤井の心が解れ、温かな刺激を与えるようだった。
 実を言うと、今回のことが片付いたらは姿を消すのではないか、という考えが過ぎったことがあった。本人から事情を明かされたこともあり、昔のように何も知らないまま別れることは無いだろうと思うものの、なにしろ取り巻く環境が特殊だ。自分も危険な立場に身を置いているからこそ分かる感覚というものがある。絶対にないとは言い切れない。
 だからこそ、こうしての方から再会を望む言葉が出たことは、赤井にとって良い贈り物となった。このUSBメモリも、ジェイムズに届いたもの同様、取引の前には用意していたのだろう。
 ──ん?
 窓から差し込む光でカードが透けて、裏側にも何か書かれているのに気付いた。裏返してみると、そこには幼い頃にと作って遊んだ文字が並んでいる。秘密の暗号だ。
 数字と、アルファベットをもじって考えた言語で綴られたそれは、おそらく現在のの居場所だ。
 こんな最高機密を少年時代に作った暗号で知らせるとは。そのアンバランスさが笑いを誘う。
 に戻ったからこそ、この暗号を使ったのだろう。十年以上の時を経て、ようやくは本来の自分に戻れたのだ。
 それにしても、最後に見るだろうカードの裏に本題を書くとは。
「お前にしては、やけに控えめだな」
 まるで内緒話をするように囁いた言葉は、小さな陽だまりの中に溶けた。せっかく誘いだ、乗らないという選択肢はない。丁度良いことに、急なオフを言いつけられた今日は、まだ始まったばかりだ。


 ◇◇◇


 昼間の街は夜に見せる顔とは違う活気に溢れている。は簡単な買い物を済ませてアパートに戻る道すがら、そんなことを考えていた。
 思えば、としてアメリカの地を踏むのは随分と久しぶりだ。幼い頃は意識していなかったので、本来の自分の姿で歩くのは殆ど初めての感覚だった。変装が窮屈なわけではなかったが、やはりこうして本来の姿で過ごせるのは良いものだと思った。なにより、父と伯父がやろうとしていたことが解決して、自身も偽装死が無事に成功したのも開放感の理由だろう。
 のんびりと歩いてアパートの前まで戻ってくると、部屋の前に人影が見えた。
「秀一!」
 まさかこんなに早く会えるとは思ってなかったので、自然と足が速まる。の声で気付いた赤井は、変装をしていないの姿を見て目元を和らげた。
「元気そうだな」
「勿論」
 無事な姿を証明してみせるように、勢いよくハグをお見舞いする。すると赤井は、昔とは違って慌てることなく、余裕を持って受け止めた。
「よかった」
 いつも通りの調子だが、長いハグで赤井が心から案じていたのが分かる。は有難うと返して、ゆっくりと体を離した。
「よく来てくれたな。中に入ってくれ」
 立ち話もなんなので、さっそく部屋に招き入れる。さり気なく周囲に目を走らせる赤井に、普段から警戒が身にしみこんでいるのだと改めて思った。
「この部屋は新しく借りたのか?」
「ああ。今までの仮住まいは全て処分したんだ。伯父との計画が終わったからな」
「そうか。だからLAで、もう帰らないようなことを言っていたんだな」
「ご名答」
 名義は違う名前を使っていたが、として生きていた時に使っていたものは全て処分した。これは始めからそのつもりで計画していたことだ。勿論、いろいろと力を貸してくれていた伯父と考えて決めていた。
 は二人分のコーヒーを煎れると、一つを赤井の前に置く。再会した日に部屋で飲んだインスタント・コーヒーとは違い、芳醇な豆の香りが室内に広がった。
「無事で良かった」
 赤井はそう言ってから、コーヒーに口を付けた。暫く連絡を取らなかったので、最後があのような状況だったこともあり心配させてしまったのだろう。は僅かに眉を下げて、あの時の状況を思い出した。
「心配掛けたよな。秀一がヘリを撃った直後に、手榴弾が飛んできたんだ。そのせいで想定よりも派手な爆発になった」
「やはりそうか。察してはいたが、遺体の一部が発見されたと聞いた時には流石に肝が冷えたぞ」
「そうだったのか? でも、偽装死の証拠は用意してあるって言っておいたよな」
「それにしても限度があるだろう。どうやってDNA鑑定をクリアさせたのかは知らんが、操縦士は腕が見つかったという話まで出てきたら、流石に心配もする。お前も重傷を負ったんじゃないかとな」
「……ああ、あれか。それは悪いことをしたな」
 笑みを消して神妙な面持ちで話す赤井に、は耳が痛いなと肩を竦めながらも、素直に詫びた。もしもが赤井の立場だったなら、きっと同じように心配しただろう。どんなに信頼していても、こればかりは仕方ない。
「操縦士の腕はフェイクだ。詳しいことは話せないが、別人のものだ。彼も無事に生きてる。勿論俺も、見ての通り大きな怪我はしていない」
川に落ちた後、伯父と落ち合ってそのまま病院に向かったが、傷はそこまで深いものではなかった。爆発の影響でところどころに小さな傷や火傷も負っていたものの、これらも適切な治療のおかげで治癒に向かっている。
「足は大丈夫だったのか?」
「ああ。もう傷は治りかけている。痛みもそれほどない。傷は少し残るらしいが、それでもよく見ないと分からない程度には治ると言われた」
「なら良かった」
 安堵したような穏やかな声に、もようやく落ち着いたような心地になった。その後で律儀にも礼代わりに渡したデータの礼を言ってきたので、補足として少し説明もしておく。結局は大したことはしていないのだが、心のこもった言葉は嬉しく、有り難く受け取っておくことにした。
「これからはとして生きていくのか?」
「そうだな。は死んだ。俺の暗殺を目論んでいた連中も上手く欺くことができたし、関係者たちは処分された。実行犯は命令されたに過ぎない連中だから、今頃は自分の任務についているだろう。暫くは探るやつらがいるだろうが、この通り俺は別人だからな。今後は本名を名乗って生きる」
 もともとそういう計画だった。だから伯父もその時のための経歴など充分なアフターフォローを整えてくれていたし、自身も成人してからは自分で出来ることも増え、いつかに戻った時にスムーズに事が運ぶように準備をしていた。
 の話に耳を傾ける赤井を見る。今はアメリカに留まっているが、こっちでの用が済んだらまた日本に行って組織の一員として動くのだろう。
「それで、丁度区切りがついたことだし、日本に行くことにした」
 静かに打ち明けると、赤井は僅かに目を見開いた。
「そうか……」
 たった一言の言葉だが、の事情を知っている彼だからこそのものだと分かる。
「先ずは母さんと父さんの墓に手を合わせたい。二人に決着がついたことを知らせてやりたいんだ」
 話している途中から、赤井の表情が変わっていく。それを見つめながら話すも、自分がとても穏やかな顔をしているのを自覚していた。
「ああ。それはいいな」
 頷いて同意する赤井を見ていると、一緒に両親を偲んでくれているような暖かさを感じる。こうして穏やかに過去を振り返ることができるようになったのも良い傾向だ。未来へと続く新たな一歩を踏み出せる。
 そう思うと、の心はさらに晴れやかになった心地がした。この年で第二の人生というのも変な話だが、気持ちとしてはそれに近い気がしている。
「なあ、。俺も一緒に行ってもいいか?」
 不意打ちのように、思いも寄らない言葉が耳に届いた。駄目か? と聞いてくる赤井に首を振る。
「いや。寧ろ嬉しい。二人も喜ぶと思う」
「なら決まりだな」
 おいおい。お前、休みなんて取れるのか?  そもそも組織メンバーに休日というものはあるのか。深くは探っていないため、どのような割り振りで動いているのかまで、は知らない。
 思わず内心で突っ込みを入れるが、赤井が良いなら可能なのだろう。としても、生前の両親をよく知っている赤井の申し出を嬉しく思っているのは本当だ。
 コーヒーを半分ほど飲んだところで、はふと思った。
「秀一」
「なんだ?」
「お前の話を聞かせてくれないか? 俺も秀一のことを知りたい」
 自然と出てきた言葉だった。勿論調べれば分かるだろうが、叶うなら赤井の口から聞いてみたかった。そんなの心情を察したかのように、赤井は静かに笑みを乗せる。
 一つ息を吐いた後、いつもと変わらない落ち着いた声で、穏やかに話し始めたのだった。



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