過去と未来の消失点

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 硝煙で霞む視界の向こうで、男が体勢を崩した。幸運にも銃弾は男の足を掠め、足止めに成功したのだ。
 男は拳銃を下ろしていた。は一瞬迷ったが、渾身の力を込めて男めがけて拳銃を投げつけた。黒い鉄の塊は見事に命中し、鈍い音と共に男の口から声とも言えない呻きが上がった。
!」
 秀一の声が頭の中に飛び込んできて、はっと我に返る。は蹲る男の様子を見届けることなく立ち上がり、すぐさま踵を返して秀一と並んで走った。
 立て続けの発砲音で、さすがに近所の住人も騒動に気付いただろう。誰かが警察に通報したかもしれない。バクバクと大きく鳴る心臓とは反対に、の頭は冷静に動いていた。
 二人の家は走れば数分の距離にあるが、の家は逆方向だ。男たちから離れるために、秀一の家からも逸れた方向に走っているので、今から方向転換する選択肢はなかった。どこかの家に助けを求めるには、追手の存在を考えると巻き込むリスクが大きい。
、あそこだ」
 秀一が古い民家を示す。もそこがいいと考えていたので、迷わず走った。そこは住人の姿が暫く見えない家で、引っ越したわけではなく家主は変わっていないのだと聞いていた。
 雨が降りはじめた通りは、幸か不幸か人通りはなかった。走り続けた二人は蔦に覆われている壁で止まり、が先に乗り越えて中に入ると、木々の隙間からバディを受け取った。最後に秀一も壁を乗り越え、無事に二人と一匹は身を隠した。
 この地区は、真っ直ぐ行けばバディがよく散歩をしているパークに出る場所だ。一軒家が建ち並ぶ通りなので、隠れる場所はそれなりにある。男たちが追ってきていても、すぐに見つかることはないだろう。
 秀一は念のために通報しておこうと言って、一連の出来事を警察に説明した。はその間、男たちが近くにきていないかを確認してから、家の壁に背を預けて腰を下ろした。雨足が強くなったので、荒い息をして疲弊しているバディに上着を脱いで被せてやる。
「大丈夫か?」
 電話を終えた秀一が、自分の上着をに差し出した。
「なんとか。……はあ、秀一に怪我がなくてよかった」
 浮かべた笑みは力ない。けれど、暴れるように鳴っていた心臓は落ち着きを取り戻し始めていた。まだ硝煙の臭いが残っている気がしたが、安堵の方が大きかった。
「それは俺の台詞だ。本当に、が無事でよかった」
「はは。それは自分でも思う。ほら、秀一も一緒に羽織ろう」
 最悪の事態を想像して眉を寄せた秀一は、小さく安堵の息を吐いた。呆れが滲んでいるが、それでも上着の半分を持ち上げるの隣に腰を下ろして身を寄せた。
「笑いごとじゃないだろう。お前は昔から、俺を驚かせることばかりする奴だな」
「それはこっちの台詞だ。秀一こそ、あんな大男をよく素手でやり込めたな」
「ああいうのは、コツがあるんだ」
 肩を竦めてみせる秀一に笑みを零すと、やっと緊張が解れていった。
「俺も母さんに連絡しておこう」
 ボディバッグの中からタブレットを取りだしたついでに、は母親宛にメールを送る。代わりに周囲の警戒をしながら見ていた秀一は、あることに気付いた。
「何をしているんだ?」
「ん?」
 メールを送り終えたが、別の作業を始めたのだ。何かを起動させたようだが、ネットゲームやチャットではない。が時折趣味で書いているプログラミングでもない。
「アイツらがどこまで逃げたかなと思って」
 追ってくる気配がないことには、秀一も気付いていた。追うより逃走するべきだと判断したのだろうと。
 とはいえ、頭脳犯とは思えないあの男たちが逃げおおせるとも思えないが。
「それは俺も気になるが……確実に不正アクセスだな」
 何を調べようとしているのか察した秀一は、苦笑いを浮かべた。が肯定するように口端を上げる。
「お? あの車の持ち主は別人らしいぞ。家族のものか、盗難車だな」
「ナンバー自体は本物か。……待て。それはセンターのデータじゃないか? まさかスパコンに侵入したんじゃないだろうな?」
「さあ、どうだろう。ま、これ以上のことはするつもりはないよ。改造したとはいえ、このタブレットじゃまだ限界があるから」
「どこがだ。前から思っていたが、のそれはもうタブレットのレベルじゃないぞ」
 秀一はやれやれと首を振るが、を止める気はない。勿論、老夫婦の姿が見えないことや車のナンバーも警察には伝えたので、しかるべき捜査が行われるだろうが。
 それにしてもとを見つめる。昔からは妙な分野に博識だった。
 昔、の家に遊びに行くと、庭のベンチでノートパソコンを触っていた。何をしているのかと聞けば、秀一たちを待っている間にプログラミングのコードを書いて遊んでいたと言う。遊びでコードを書く子どもがいるのかと目から鱗が落ちた。
 なんのことだ? と頭に疑問符を浮かべている秀吉にが見せた画面には、本当にコードが記されていた。
 プログラミングは父親が教えてくれたと言っていた。他にもいろいろと、一般的な自宅学習以上のことを両親から教わっている様子だった。
 銃の扱い方も父親に習ったのだろう。秀一もと一緒に射撃体験に連れて行ってもらったことがあった。
 施設には銃の射撃場もあったのを覚えている。の父親が亡くなるまで、何度か通っていたことは秀一も知っていた。
「秀一、これ。見てみろよ」
 画面をのぞき込むと、車の現在地が出ていた。別のウインドウには街中の監視カメラの映像らしきものが映っている。
「捕まったのか」
「よかったな。じいさんたちはあの場所に置き去りにされた可能性が高いけど。あいつらが捕まって良かったよ」
 二人は老夫婦の無事を願いながら、数分後、遠くから聞こえてきたパトカーの音を聞いた。
「ようやくお出ましか」
 秀一が呟く。サイレンに反応したバディを宥めていると、のタブレットに母親からメッセージが届いた。
「車で逃げようとしたけど、動きが怪しい上にナンバーで即バレをしたらしい。カーチェイスが盛り上がる前にタイヤをパンクさせられて、撃ち合いもなくゲームオーバーだ」
 と秀一が散々痛めつけたことや、暴発で負傷したりなど仲間が使いものにならなかったのも要因かもしれない。
「随分と間抜けな末路だな」
 だから子どもなど追いかけずに逃走すればよかったのだ。そんなことを零しながら、も秀一もようやく警戒を解いた。
「それにしても、さすがは秀一だな。この暗がりとあの状況で、よく車のナンバーを見ていたな?」
 が感心して言うと、当の秀一は喜ぶでもなく、「たまたま見える位置にいただけだ」と言って微かに口元に笑みを乗せるだけだった。
「今、じいさんたちが見つかったって。怪我をしているが命に別状はないらしい」
「そうか。俺たちも行こう。よかったな、バディ」
 雨よけにしていた上着を外して腰を上げる。はタブレットをボディバッグに入れながら、潰れてしまった焼き菓子に苦笑いを浮かべた。よく見ると秀一の荷物も泥まみれだ。
バディに被せていた上着ごと抱き上げると、秀一が自分の上着を差し出してきた。
「いいのか?」
「体が冷えてる。タブレットも濡れるし、ボディバッグの上から被っておけ」
「秀一も冷たいぞ」
 片手を伸ばして触れれば、同じくらい体が冷えているのがよく分かる。
「俺はバディが温かいから良い」
 秀一はそう言って、いつになく強引に上着を被せた。そこまで言うならと譲ることにして、バディを渡す。
「撃ったこと、警察に聞かれるだろうな……」
 きっとこの後は事情聴取が待っている。母親に付き添ってもらうことになるのも申し訳ないが、銃を撃ったという事実はにとっても予期せぬことだった。
としては正当防衛のつもりだが、容易く許される行為ではない。身を守るためとはいえ自ら違法な武器を手にして、更には使ってしまった。褒められるものではないと自覚している。
「俺も一緒に説明する。あの時、がアイツを撃たなければ俺たちが危なかった。……あいつの銃は本物だった。俺たちに当たっていてもおかしくはなかった」
 あの時、が小枝を踏んで足を取られなければ、が撃ち抜かれていただろう。直ぐ近くにあった木の枝が砕けて飛び散った光景が脳裏に蘇る。
「あのままだったら、今度こそどちらかが撃たれていた。──いや、あの時狙われていたのは俺だった。そうなんだろ?」
 その通りだ。あの時、男の銃口はバディを抱える秀一に向けられていた。脅しなどではないことは明白だった。一発目の時も、が足を滑らせなければ命中していた。
 秀一も気付いていたのだ。は秀一の言葉に苦く笑んで頷いた。
「ああ」
 撃たれると思った。秀一が走り出すまで間に合わない。だから撃った。撃つしかなかった。
「何かしないと、運良く避けることができてもどのみち追いつかれて、捕まると思った」
「俺もそう思う。俺たちはアイツらに散々なことをしたからな。捕まったら容赦なく、手酷く扱われただろうぜ」
 秀一の言う通りだ。あのまま捕まっていたら今頃は撃たれて命を落としているか、殴り殺されているかもしれない。
 決意して撃った銃弾は狙いを大きく外すことなく、足を掠められたのは本当に運が良かったと思う。致命傷を負うような場所にあたっていたら、いくら犯罪者相手とはいえ大変なことになっていただろう。
 正当防衛。それでもは、引き金を引いた瞬間の拭いきれない感覚は、忘れぬよう胸に刻んでおこうと思った。

 秀一がバディを下ろして、の両手に自分の手を重ねた。それはまるで、親友の密かな決意を知っているかのようだった。
「お前の勇気を、俺は一生忘れない」
 強く握ってくる手は雨と外気で冷えている。けれど、二人の体温が少しずつ馴染むように、温かいものを感じた。
 真っ直ぐに見つめてくる秀一の目を、も見つめ返す。は秀一の言葉に応えるように、重なった手を強く握り返した。
「ありがとう、秀一。……お前がいてくれて良かった」
「俺もだ」
 互いに笑みが漏れる頃には応援のパトカーが到着して、野次馬が駆けていく声も聞こえてきた。
「行こう、
 秀一が足元で大人しく待っていたバディを抱き上げると、二人を見上げて合図をするように尻尾を一振りした。
「ああ。行こう」
 早くご主人様を見つけ出して、会わせてあげよう。


3



 VIPルームの担当は自分の勤務終わりに備品の最終チェックも行う。その機会を利用して、盗聴に使ったスマートフォンを回収した。正確には、スマートフォンのような機能を持った機械だが。
 マクレガーもオーナーも最後まで盗聴に気付いた様子はなく、いつも通りのルーティンで場所を移して酒を飲み交わし、お開きになった。
 はスタッフルームで着替えながら、脱いだばかりのディーラーのユニフォームを見つめる。まさか、好奇心がきっかけで習得したディーラー経験が活きるとは思っていなかった。
 アシェルの背格好がとよく似ていたことを含めて、自分でも運が良かったと思う。それに加えて、FBIに要求した援護役が昔馴染みときた。十年以上の空白があるとはいえ、まったくの赤の他人と組むことを考えれば、信用は比べものにならない。
 思わぬ巡り合わせに、信仰心の薄いも思わず神に感謝したくなるほどだった。今回はとりわけ引きが良い。は運が後押ししてくれているように感じながら、アシェルとして勤務を終えてカジノがある棟から出た。

 一人になったところで、ポケットからメモを取り出す。ゲーム終わりに、さり気なく赤井から渡されたものだ。記された数字とアルファベットが合流場所を示しているのは直ぐに分かった。
「さて、その前に一仕事するか」
 マクレガーが宿泊予定の部屋に入ったことは確認済みだ。あとはも予定通りに、予め準備していた部屋にチェックインして作業をすること。
 人目につかない場所まで移動すると、貼り付けている”アシェルの顔”を剥がした。今回は特殊メイクの要領で変装をしたので、変装道具のスイッチ一つで変えることはできない。
 外した顔をバッグの中にしまい、コンタクトレンズのケースを取り出す。今つけているものと交換して、の目に戻すのだ。ベースとして持ってきたの顔を装着する。
 母親が開発した特殊なホログラムを利用すれば、顔も含めて全身を別人に変えられるが、当然触れれば違いが分かってしまう。それに、機械の故障でアクシデントがあった時に、素顔を晒すリスクもあった。だからこそ、顔だけはアナログで作っているのだ。要は、マスクの下にマスクを付けているようなものである。
 今回はいつものようにの姿になってから更にホログラムを重ね、別人に見せてホテルを出て行く予定だ。
 別人として動いているのは、がマクレガーに接触している証拠になり得るものをわざわざ残す意味がないからだ。なにより、別人に変装をしている方が断然行動しやすい。
 は最後に整えていた髪を手櫛で崩し、無造作に片方を撫でつけた。これでベースはできた。仕上げにホログラムを使って周囲から見える映像を重ねれば完了だ。そうして、バッグに入れておいた腕時計を手首につける。3Dホログラムを利用した変装機能が搭載されている腕時計だ。
 勿論時計として使えるが、ホログラム機能が大部分を占めている。本格的な変装をする時間がない場合や、大がかりな変装が必要ではない時にも使い勝手が良い。になる時以外にも、監視の目を欺く時などに併せて使う手段だった。
 かつて母親が発明した機械は、こうして今でも重宝している。勿論、潜入時には声も変装対象に合わせて変えているので、服装はどうしてもタートルネックやマフラーをすることになるが。
 母親とで協力して開発した変声道具も、改良を加えては使い続けている機械の一つだった。修理や改良ができるようにと、基礎知識や開発から仕込んでくれた母親には感謝しかない。
 鏡に映った自分を見ると、そこにはもうアシェルの面影は一切なかった。

 としてアメリカに戻ってからは、常に変装しているようなものだった。
 は生まれも育ちもアメリカ合衆国だ。この名前はが勝手に名乗っているのではなく、公的に社会に存在している人間である。調べられても不自然な部分がないように作られた身元。
 実の伯父に当たる人物とその友人、両親と親交があったイーサン・本堂が秘密裏に手を回し、がアメリカに戻るために用意したものである。大雑把に言えば証人保護プログラムのようなものだが、これはあくまでも裏のやり方で得た身元であり、どの組織の管理下にもない。
 年齢を重ねるにつれて顔の変化を調整するのは面倒だったが、目の色はコンタクトレンズを付ければいいし、髪色もベースさえ決めていれば問題なかった。は少し癖のあるライトブラウンの髪をアッシュブロンドに染めていて、目の色はグレーだ。
 しかし、が生まれ持った髪色は暗めの落ち着いたブラウンである。目の色はブルーベースにグリーンが僅かに混ざり、中心近くはアンバーというアース・アイだ。顔立ちは一見して欧米の血が混ざっていると分かるが、生粋のアメリカ人顔のとはやはり違う。敢えて結びつかない程度の違いを作ったので、当然のことだ。
 が本来の姿で生活していたのは、イギリスに移り住んだ間だけだ。その数年間、は本当の自分でいられた。



 無線LANからマクレガーの携帯電話にアクセスしたは、遠隔操作の動作確認をしてから部屋を出た。何食わぬ顔でフロントに立ち寄り、チェックアウト済ませる。
 元々の計画ではこのまま拠点として使っている部屋に立ち寄る予定だったが、赤井に会わない選択肢はない。客に変装したままで向かうため、ジェイムズを介して現在の姿と携帯電話の番号を赤井に伝えてから、指定の場所へ向かった。

 夜が明けきらない街は、まだ街灯やネオンが映えるほどには薄暗かった。
 時折車が通り過ぎる中で指定されたバーの近くまで来てみると、やはり店は閉まっていた。車で来ていることから考えても、酒を飲むのではなく待ち合わせのための目印だったのだろう。
 店のすぐ前までくると、停まっている車の傍に人影が見えた。変装した姿を伝えておいたからか、赤井もすぐに待ち人が来たのだと気付く。車に凭れるようにして立っていた体を起こし、改めてを見た。
「元お仲間は?」
 十年以上の年月を経て聞く赤井の声は、ひどく懐かしかった。年を重ねたからか、昔よりもやや落ち着いた深みのある声色が胸に染みていく。油断すると頬が緩みそうだ。
 それでも、今はどこに誰の目や耳があるか分からない。はここで正体を明かすつもりはなかった。
「仲間だったことはないがな」
 赤井は特に畏まった様子もなく気さくに話しかけてきたので、もジェイムズに対するより些かラフな態度で返した。
「俺を狙っている奴らはいない。今頃、俺が泊まっていることになっているホテルを健気に張り込んでいるだろうよ」
「それは……随分と面白いことになっているな」
「滑稽でお似合いだろう?」
 は肩を竦めてみせ、運転席のドアを開ける赤井に続いて、助手席へと乗り込んだ。
「ジェイムズから聞いていると思うが、FBI捜査官のシュウイチ・アカイだ」
 名乗ったということは、少なくとも車内に組織の人間の耳がないことは確認済みなのだろう。そう思ったが、カードを見るかと聞いてくる赤井には、首を振って断った。
「いいのか?」
 確かめた方がいいぞと助言するような声色で問われて、言葉を付け加える。
「アンタは間違いなくシュウイチ・アカイだよ」
 が言い切ると、赤井は意表を突かれた顔をした。
「一応、簡単にだが調べさせてもらった。それに、ここに来ているのが本人だということはジェイムズが証明できる」
「そうか」
 赤井の探るような視線に構わず、はシートベルトを装着する。赤井も既に車を出す気は満々で、そこまで気にしているわけではなさそうだ。
 当然、は赤井秀一を知っているからこそ本人だと分かるのだが、それを打ち明けるには話が長くなる。
 まさかこんな形で再会するとは。運転席に座る赤井を横目に何度か分からない感想を呟いていると、不意に違和感を覚えた。目を凝らして見ると、数メートル離れた後ろの道をゆっくりと通り過ぎていく一台の車。薄暗い中でも、不審な動きをすれば嫌でも分かるというものだ。
 バックミラー越しに視線だけで赤井を見ると、ほとんど同じタイミングで彼もを見た。
「お前さんも気付いたか」
「組織のやつらか? それにしては随分とあからさまだが……」
 敢えてそうしているのだとしたら、尾行や監視が目的ではないということになる。
「あれは違うな。ただ、ターゲットは俺で間違いないだろう。今回のウイルス取引の仲介をしてきたやつらだ。少し前から動きが怪しかったから、組織でも始末するターゲットとして名前が挙がっている。俺のことは諸星として認識しているはずだ」
「ああ、そっちの方か。どうする?」
赤井が組織の中でどのような立ち位置なのか詳しく知らないため、アクションを起こすのか否かは赤井に任せる。
「すまんな。デートの前に、邪魔者を撒かねばならないようだ」
 独特の言い回しに懐かしさを感じながら、は短く相槌を打った。
「気にすることはない」
 ならば自分もと、懐から使い慣れた拳銃を取り出す。あまりにしつこいようなら、強制的に足を奪うまでだ。そんなを見て、赤井は興味深そうに口端を上げた。
「大丈夫そうだな」
「刺激的なドライブになりそうで、楽しみだよ」
 言葉遊びに乗りつつ皮肉を交えると、赤井がミラー越しに笑みを深くする。エンジンがかかり、大きな手がハンドルを握るのを眺めながら、はリクエストをしてみることにした。
「デートの行き先はLAにある俺の部屋でもいいか?」
 元々はそこに戻る予定だった。が拠点の一つとして使っている部屋だ。盗聴や監視、セキュリティ対策の面では最も安心できる場所。特殊なドライブの末に向かうのなら尚更、ホテルよりも気の休まる場所が良い。
 今後も監視が付いてくる可能性があるのなら、赤井にとっても悪くないはずだ。
「少し時間は食うが、計画についての話はそこでしたい。頼めるか」
 セキュリティ面で安心であること、誰にも場所を知られていない部屋であることを説明すると、読み通り赤井は二つ返事で承諾した。
「勿論だ」
 が詳しい場所を教えると、赤井は頷いて「ならばやはり、早急にアレを追い払おう」とアクセルを踏んだ。
 仄かに白み始めた街を、スピードに乗った車は迷いなく走り抜ける。繁華街を抜けたところ、もう一台が加勢してきた。すると追手の車は勢い付いて車間を詰めてきて、挨拶代わりに発砲してきた。
 やはり目的は尾行ではなかったようだ。どうりで、最初から隠れる気がないわけである。
「俺に風穴を開けるのが目的のようだな」
 赤井が車間を調整する隣で、は体勢を変えて拳銃を構える。目的が暗殺なら、これ以上引き延ばしても無駄だ。もしこのまま先回りを許して挟まれたら、面倒なことになる。
「撃つぞ」
 一応、赤井の関係者のため攻撃の許可を問う。
「分かっているとは思うが、くれぐれも”足止め”で頼むぞ」
 言うや否や赤井が更にスピードを上げた。直ぐ目の前の道を敢えて脇に逸れて、が撃ちやすいように追手を導く。
「当然」
 言いながら窓を開け、死角になっていた建物から抜けた瞬間に身を乗り出して先ずは一発。銃弾は見事に追手の車のタイヤに命中した。制御を失ってスピンする車の後輪に追撃。更にバランスを崩した車体は浮き上がって、一回転しながら後続車を巻き込んだ。
 激しく衝突した二台はそのまま大きく道路から外れ、大型看板にぶつかって止まった。これで追いかけてこられない程度には走行不能になったはずだ。
「良い腕だ」
 が座り直したところで赤井が言った。
「それはどうも」
 勿論殺してはいない。車は大破しているが、乗っていた二人はドアを開けて転がり出てきた。顔に赤い色がついているようだが重傷ではない。もう一台の方はミラーで確認すると、遠目に腕を押さえながら怒鳴っているのが見えた。
 拳銃をしまいながら窓を閉めていると、ミラー越しに赤井と目が合う。
「どうした?」
「……どこかで会ったことがあったかと思ってな」
 言葉にしながらも考えているような調子で言う赤井は、神妙な様子を醸し出していた。それでもが問うように目を向けると、首を振って視線を前に戻す。
「いや、すまん。忘れてくれ」
 それからは襲撃や追跡もなく、二人は無事にカリフォルニアに入った。


 前回使ってからあまり間が空いていないためか、ロサンゼルスの部屋はそれなりに過ごしやすい状態を保っていた。
「殺風景な部屋だが、適当に座ってくれ」
 赤井を招き入れて、簡単に家の中を紹介してから作業専用部屋に案内する。この家は盗聴妨害などの対策を施してあるため、そういう意味で仕事の話をするのにも向いていた。
「ここにはあまり帰らないのか?」
 にすすめられるまま椅子に腰を下ろしたところで、徐に赤井が尋ねる。
「一応ここが本拠地みたいなものだが、他にも部屋がある。情報を集めるだけならここで事足りるが、俺は現場にも出ているからな。幾つか部屋を持つ方が動きやすい」
 複数の部屋を持つことで管理する人材が必要になるが、そこはと協力関係にある伯父が要請に応じてフォローしてくれていた。
「本拠地を教えて良かったのか?」
 赤井はソファではなく、デスクとして使っているテーブルを挟んだ向かい側に腰を掛けた。
「構わない。それに、もうすぐここともお別れだ」
「……お別れ?」
「先ずは俺の計画について説明しよう。コーヒーでいいか? まあ、コーヒーしかないんだが」
 残念ながら本格的な焙煎コーヒーはないので、ストックしてあるインスタントコーヒーを煎れることにする。湯を沸かしている間に冷凍庫からピザを取り出し、小腹を満たすことにした。
「シュウイチも食べるだろう?」
「ああ、頂こう」
 先にコーヒーを出す。赤井はカップに口を付けて、一気に半分ほどを飲んだ。もパソコンを置いている方の椅子に腰を下ろす。カップが冷えていたからか、淹れたてのコーヒーは適度に飲みやすい温度になっていた。
 ピザが出来上がるまでの間、赤井に変装対象だったアシェルについて聞かれたので、潜入するに至った経緯を簡単に説明した。
 の計画と直接の繋がりはないが、実はアシェルは十年以上前に起こった爆破テロ事件の関係者である。
 それに気付いたのは、マクレガーがアシェルに目をつけていることが分かったのが切掛けだった。
 アシェルの生い立ちから始まり、性格や素行、生活サイクル、交友関係など、彼になりすますために調べているうちに、テログループとの接点を見つけたのである。巧妙に隠されていたが、だからこそには違和感として印象に残り、徹底的に調べて判明したのだった。
 ジェイムズにアシェルとテログループ、そして迷宮入りしている爆破テロ事件の繋がりを伝えた時には、常に冷静沈着なジェイムズも驚きを露わにしていた。
 本物のアシェルは、が成り代わる準備ができた段階で身柄が確保されている。今回の任務に支障が出ないよう秘密裏に行われた交代で、まだ公表されていない。
「ホォー……そういうことだったのか。俺にも情報が回ってきていないということは、知っているのはジェイムズくらいか?」
「その通りだ。今回の案件にはあまり関係がないからな。……おっと、出来たな」
 ピザが良い匂いをさせている。ラスベガスで数時間を過ごし、そのまま休憩なしで四時間以上のドライブとなったからか、二人はあっという間に二枚のピザを平らげた。食べながら組織についても幾つか尋ねると、赤井はすんなりと教えた。
「そうか。つまり、組織は今も俺が完全にCIAの人間だと思っているんだな?」
「ああ。CIAが表立って動いていないのも関係しているのかもしれんな。今のところお前さんはCIAの手先だと思っている。やつらから命が狙われていることも、ましてやFBIと通じていることも気付いていない」
「それは僥倖。今後は俺を組織に勧誘することはないだろうし、うまい具合に対立していた方がやりやすいからな」
「……まさか、敢えて標的になろうとしているのか? てっきり、俺は援護射撃のようなことをやるのだと思っていたんだが」
 赤井がそう考えるのは当然のことだ。方々から命を狙われていれば、さすがに動きにくいし、何よりが援護として求めた人材はスナイパーである。普通ならば、を狙っている輩を見つけて排除する役割を任されると考えるのが妥当だろう。
「逆だ」
「……逆、か」
 視線が交差する中で、は真っ直ぐに赤井を見つめて口を開く。
「アンタには、を殺してもらいたい」
 数秒の沈黙。静まりかえった室内で、静寂を破ったのは赤井だった。
「……お前さんを、ではないということか。つまりは──」
「偽装死」
 赤井の言わんとするものを引き継いで告げる。口端を上げれば、赤井の目が一層なにかを見極めようとして鋭くなった。
「一歩間違えれば、本当に命を奪いかねない役目だな」
「そうだ。だからこそ、俺は信用できる優秀な人材が欲しかった。遠距離の狙撃に長けた、優秀なスナイパーがな」
「なるほど。それなら確かに俺が適任だ」
 そう言いながらも、赤井の鋭い視線は変わらない。
。元の姿には戻らないのか?」
 赤井の指摘通り、はまだホテルの宿泊客に変装したままだった。変装と言っても、ほとんどをベースにしているものなので、解いたところで驚くほど変わるわけではないが。
「ああ、そうだな。このままというのも変だし、戻そうか」
 カップを置いて腕時計に触れる。スイッチを押せばホログラム機能が解除されるので、瞬時に顔立ちや服装などが実物の視覚的情報へと変わる。
 時計のことは誰にも教えていない。前知識無しに目にした光景に、赤井は少しの間言葉を失っていた。
「……これは驚いた。腕時計に仕掛けがあるのか?」
「その通り。予めパターンを登録しておく必要があるが、使い勝手は良い。一応、部分的に変えることもできるがな」
「そうか……。それなら……いや、しかし」
 一瞬の衝撃から立ち直った赤井が、ひとりごとのように呟く。まだ話はこれからなので、は空になったカップにコーヒーを入れようと立ち上がった。
「もう一杯入れてくる」
 次の瞬間、赤井が動いた。
 の腕を掴んだかと思うと、カップを取り上げて手を握ってくる。それから何かを考えるように、まじまじと見つめた。
 一連の様子を見ていたは、もしかしてと、ある可能性に思い至る。しかし気持ちとしては複雑だ。そう簡単に見破られる変装ではないし、癖なども把握して十年以上をとして生活してきたというのに。最後に会ってから一体どれだけの時間が経っていると思っているのだろうか。そう考えると、赤井の洞察力と記憶力が少しだけ憎らしい。
 嘆息と共に握られている手を握り返すと、赤井は今度こそ顔を上げた。
、」
 半信半疑。問いただそうにも、CIAの息が掛かっているとなると不用意に名前を出すわけにもいかない。そんな静かな葛藤が滲む赤井と目が合った。
 は何かを言いかけた赤井の手を掴み、引っ張り上げる。
「来いよ」
「おい、まさか……」
「いいから」
 こんな時でも平静を保っているところは流石だが、そんな赤井にも微かに揺れる感情はあるものだ。それを見つければ、の頬も緩むというものだ。
 洗面台まで連れて行き、入ったところで手を放す。その場で立ち止まった赤井の視線を背中に感じながら、としての顔を剥がした。そして、手早くグレーのカラーコンタクトレンズを外す。
 髪は染めているのでこの場では戻せないが、真似ようがない独特の目の色は、である何よりの証明だった。
、なのか? 本当に……」
 鏡越しに赤井を見つめる。幻を見るような、それでもしっかりとだと認識しているのが分かる。振り返って直接対面すると、不思議なことにようやく赤井と再会したような感覚に襲われた。
「秀一」
 思わず笑ってしまったに、ゆっくりと赤井が近付く。精々二歩の距離しかなかったが、なぜか長い道のりのようにも感じた。
 感動の再会と言うには少々奇抜だ。しかし、再会を心から望んでも動くことができない状況にいた二人にとって、これ以上ないほどの瞬間だった。どちらからともなく腕を伸ばし、かたくハグを交わす。
「久しぶりだな」
「そうだな……。本当に、久しぶりだ。まったくお前は」
 昔から、俺を驚かせることばかりする奴だ。聞き覚えのある言葉に、は今度こそ思い切り笑ったのだった。



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