Buddy

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 赤井は玄関に持って入ったままになっていた荷物から、風邪薬を取り出した。の自宅に行く途中、念のためにと買っておいたものだ。今思えば、から電話が掛かってくる前に買っていてよかった。
 キッチンに向かい、冷蔵庫の中から新しいミネラルウォーターを取り出す。同じメーカーのものをストックしていることは知っていたので、蓋を開けた二本に加えて余分に取り出して、冷蔵庫に入れておいた。
?」
 寝室に戻ると、は横に倒れた体勢で目を閉じていた。まだ呼吸は早く、辛そうにしている。それでも表情から緊張の色が消えたように見えた。家に帰ってきたことで漸く休息できているのかもしれない。
 赤井はサイドテーブルにペットボトルと風邪薬を置いてから、の体を静かに上向かせた。眉間に皺を寄せているところを見ると、まだ眠ってはいないようだ。
、もう少しだけ眠るのは待ってくれ」
 声を掛けると、瞼がゆっくりと上がった。汗で濡れた前髪の奥で、赤井に応えるように独特の色をした目が見つめてくる。焦点が会うまでに時間が掛かったが、それでも意識が戻ったばかりの頃に比べれば大分良さそうだ。
 腕を動かせるようになったのか、シーツに投げ出されていた手が、今は腹の上に置かれていた。
「……水?」
 先ほどより呂律が回っていることに、少し安堵する。
「水と風邪薬だ。熱を下げた方がいい」
 触れた体は相変わらず熱かった。体感でも相当だろう。冷凍庫にはアイスノンのようなものは無かった。後で氷を袋に詰めてみようかと考えながら、呼吸や脈拍を確認する。
 解毒剤を飲んでから五分ほど経ったら、念のために体調を確認してから風邪薬を服用するようにと灰原から言われたのだ。
「問題なさそうだな」
 元々風邪を引いて体調を崩していたところに、体に負担をかける薬を飲んでしまった。その上に弱っている体を酷使してしまったのだから、限界がくるのも当然だ。
 体を起こそうとするの背中に腕を入れ、起き上がるのを手伝う。
「さっきよりも力が入るようになったな」
「そうだな……」
 赤井の言葉に頷いたは、今度は自分で飲めると言った。ペットボトルを握らせると、指に力がこもる。赤井はペットボトルが落ちないのを見届けて、風邪薬をもう一方の手に乗せた。慎重な動作ではあるが、は自分で薬を飲むことができた。
 汗をかいたことで軽い脱水状態だったのか、は薬を飲み込んだ後、ペットボトルの中身を半分以上飲んだ。
「解毒剤は数分でカプセルが溶けて効き始めるらしい。個人差はあるが、徐々に体も戻るそうだ」
「ありがとうな、秀一」
「気にするな。少し落ち着いてきたか?」
「マシになった気はする」
 はそう言うと、クッションに背を凭れさせるように体を預けた。我ながら、思いつきでソファからクッションを持ってきたのは良い案だったようだ。
 それにしても、と赤井は改めてを見た。よく見てみると服は大きく、袖やズボンの裾は捲り上げられている。裸足で移動したからか、足の裏には砂利がついているし、心なしか汚れていた。
 なにより奇妙なのはの姿だ。先程までは無事に家まで連れ帰ることに集中していたが、こうして落ち着いてからよく見ると、何とも言い難い。確かに赤井と同じ年齢の男だというのに、今は十代の少年に見える。体格が良い方なので、青年と言っても合っている気がするが、未成年には違いない。
 薄暗い物陰で倒れているを見つけたときには肝が冷えたが、この姿を見てどれほど驚いたことか。なにせの体はどう見ても一回りほど小さく、顔も幼さの残る面立ちになっていたのだ。
 赤井が思い出す時には十代の頃のが多かったこともあり、奇妙さは徐々に遠のいて、懐かしさが勝ってくる。
「どうした?」
 が不思議そうに尋ねた。
「いや……懐かしくてな」
 その一言で赤井の心境を察したが、ほんの少し眉尻を下げた。
「昔を思い出したのか。……驚かせたよな」
「自分の目を疑うくらいには驚いたぞ」
「俺もだ」
 自嘲するに、そうだろうなと赤井も同意する。
、聞いても良いか」
「なんだ?」
「なぜ家を出た? 何者かが侵入した痕跡はなかったが、まさか組織の連中が接触してきたのか?」
 それならば早急に対策をしなければならない。そう思っての問いかけだったが、は緩く首を振った。
「あの家の周辺をうろついていたのは、おそらく公安だ。顔に見覚えがある」
「公安? 降谷零か?」
「いや、別のやつだ。本人は顔が知られているからだろうな……。通行人に成りすまして通りがかるにしても、顔見知りが住んでいる住宅街だ、リスクがある。あの家から逃げたのは、俺の方の問題だ。こっちで対象になっている組織のトップツーが日本に来ているという情報が入った。どうも、近くをうろついていたらしいんだ」
「まさか、お前を狙っているんじゃないだろうな?」
「それはない。俺を狙っているというより、そういう人間がいるかどうか探っていた、と言った方が近い。間の悪いことに、情報が入った時はこの姿になった直後でな……」
「……本当に間が悪かったな」
「まったくだ。……公安とそいつらが接触しても面倒なんだ。工藤家の様子を窺っているらしい公安を敢えて引きつけて、適当なところで撒いた。靴はまあ……察しの通り、こんな姿だからサイズの合わない靴は置いていくしかなかったんだ」
 今頃は仲間がフォローに入っているだろう。工藤家の周辺はいつも通りになっているはずだと話すは、淡々としていた。経過報告のような感じで、緊急性は感じられない。
「相変わらず、肝心な部分は何も明かさない説明だな」
 明かせないのだろう。それはよく分かっている。
「悪い」
 こういう時、少し困ったように笑うは昔から変わらない。そう思って、否、と改める。本来、CIAにいたが表情を取り繕うことは容易い。何も知らないような顔をして誘導すれば、完璧に誤魔化せるだろう。敢えて表情を見せると言うこと自体がの答えであり、赤井への譲歩だ。
 は決して言葉に困っているわけではない。話せないことだと示しているだけ、誠実だった。この顔をする時のは、絶対に口を割らない。相手が唯一無二の心友でもだ。つまるところ、行き詰まったのは赤井の方だった。
「そっちの案件はそれでいいとして、公安の目的は俺か? まだ俺の正体を探っているのは知っているが、あからさまだな」
「……公安も何か情報を持っていて、近辺を探っていた可能性もゼロじゃない。……いや、それでも公安が動くのは不自然だな。上には報告しておいたが、念のために俺の方でも調べてみようか」
 一人言のように言っているが、今すぐにでも取り掛かりそうなに待ったをかける。
「今は無理をするな。仲間に任せたなら、お前は体を治すことに専念するべきだ」
 は暫く無言で見つめてきたが、やがて諦めたように小さく嘆息した。
「分かった、分かった」
「本当に分かったのか? 冷やすものを持ってくる。他に何か欲しいものはあるなら言ってくれ」
「……デスクの上のノートパソコン」
「おい」
「メッセージをチェックするだけだ。……タブレットの方でもいい。頼む」
 確かに、この状況だからこそ確認は必要だ。赤井もがいつもパソコンや細工した端末で遣り取りをしていることは知っている。
「分かった。パソコンを取ってくる。大人しく寝ていろよ」
 念を押してから立ち上がると、が微かに苦笑いを零した。
「本当に子どもになった気分だな……」
 こんな時くらいは、子どものように世話を焼かれておけ。赤井がそう言うと、はやれやれと言うように首を振った。

 メッセージを確認したは、返信を打っていたかと思えば、いつの間にか眠っていた。さすがに疲れたのだろう。
 赤井は微睡み始めたの手からパソコンを抜き取り、サイドテーブルに置いて部屋を後にした。
 元の姿に戻るまでは傍で付き添っていようと思ったが、ジェイムズ・ブラックからの不在着信と、折り返し連絡を入れるようにというメールが届いていたのだ。寝付いたばかりのの傍で電話をするのも憚られるため、寝室から出て電話を掛けることにした。
 ジェイムズには、を探しに行っている時に連絡を入れていた。公安が工藤家の周辺にいたことや、赤井達が去った後の周辺の様子を確認してもらうためだ。
「工藤家の周りを張っていた公安は、きみの動きを警戒していたようだ。君が囮になって行方を眩ませた後は戻ってきていない。どうやら、彼らは独自のルートで君が調べている組織の動きを察知したようだ」
「つまり、をつけ狙っていたわけではないということか。だがなぜ工藤家を張っていた?」
「本命はその組織のメンバーが現れたとされる場所だ。そこに向かいつつ、君が動きを見せたら知らせるようにと部下を配置していたんだろう」
「なら、俺が留守にしていたことは知らなかったんだな」
「そうだろうな。それから、コナンくんたちは無事だ。阿笠氏の家で和やかに過ごしている。あちらも心配はないだろう」
「そうか。……それで、が追っているという組織については何か分かったか?」
「その件だがね、先ほど本部から連絡が入った。FBIは一切介入しないとのことだ。どうやらこれは公安にも通達されたらしい。彼らの姿が見えなくなったのも、これが理由だろう」
 思わぬ言葉に、言われた内容を脳内で反芻する。
「ホォー……それはまた、デカい組織が絡んでいるようだな」
 本部から連絡が入ったと言うことは、FBIのトップがそのように決定したということだ。一切介入しないという言い方はしているが、介入を禁じられた感が否めないのは気のせいだろうか。
 の組織が追っている時点で、マークするべき存在だ。それにも関わらず一切干渉しないというのは、裏に何かあると言っているようなものだった。
「そうだな。だが、この決定がある以上は我々も遵守しなければならない。いいね?」
「……了解した」
 釘を刺されてしまっては仕方ない。なにより、それが間接的にのためなら尚更だ。
「彼の容態はどうだね」
「さっき薬を飲んだところだ。今は眠っている」
 腕時計を確認すると、そろそろ解毒剤が本格的に効き始める目安の時間だった。何が起こっても対応できるように、部屋に戻って様子を見ていた方がいいかもしれない。
「そうか。工藤家の方はこちらで引き続き様子を見ておく。落ち着いたら一度、連絡を入れるように」
 今はキャメルとジョディが交代で見回りをしているらしい。二人にも手間を掛けさせたようだ。赤井はジェイムズに了解したと告げ、通話を終わらせた。
 ──ん?
 リビングに入った時には気付かなかったが、収納スペースにカードの角のようなものが見えた。近くには雑誌が何冊か置いてある。近付いてみてみると、カードではなく写真だった。
「……これは」
 幼い頃の赤井とだった。確かに庭でもよく遊んでいたが、日常の遣り取りを撮られていたとは思わなかった。裏返すと日付が記されている。どうやら十歳の時のものらしい。
 写っている場所はの家の中庭だ。寛いだ格好でベンチに座り、はパソコン画面を見ながらキーボードに手を置いて、赤井は画面を指さしている。撮られていたことは覚えていないが、こうして過ごしていたことはよく覚えていた。
 ガタン
 写真に見入っていると、静寂に包まれていたところに物音が飛び込んできた。呻くような声が聞こえて、瞬時にを思い浮かべた赤井は、急いで寝室に向かった。


 ◇◇◇


 まだ火照りの残る体に、秋の夜風が心地良い。は本来の姿に戻った掌を見た。無事に元に戻ってよかった。
 どうなることかと思ったが、解毒剤が効いたのが幸いしたのか、弱っていた体もみるみる良くなっていった。俄には信じられない体験だったが、元の姿に戻った時には安堵が胸を占めていた。
 解毒剤のお蔭で成分は中和され、不自由だった手や足も動くようになった。薬の副作用が大半だったのか、嘘のように体が楽だ。風邪薬も充分に効いた今では、あれほど高かった熱も微熱になっている。
 体調が回復すると余裕も出たようで、さきほど赤井と二人して小腹を満たしたのだった。
 コナンと灰原には、直接連絡を入れておいた。赤井からも連絡が入っていたようだが、二人ともの声を聞いて、ようやく安心したようだった。灰原とは薬について話す必要はあるが、先ずは安心させてやりたかったので、連絡を入れて正解だった。
 向こうは予定通り流星群の観測を楽しんだようで、後ろから聞こえてきた眠そうな声には和ませてもらった。

「それにしても、あの薬は驚異だな……」
 体が元に戻る直前、突然激しい動悸に襲われた。零の薬を飲んだ時のデジャビュが脳裏を過ぎったのは言うまでもない。
 数秒間は本気で息ができないほど苦しかった。あまりの苦痛に胸を掻きむしりながら起き上がったほどだ。自分の体重を支えきれずに体勢を崩して、膝から崩れ落ちてしまった。物音が派手に響いただけで、一つも怪我はしていないのだが、赤井が血相を変えて飛び込んできたので相当な音だったのだろう。
「ここにいたのか」
 ジェイムズへの連絡を終えた赤井が、ベランダにやってきた。は煙草を持った手を軽く上げて、隣を空ける。
「秀一も吸うか?」
 シガーケースを差し出すと、赤井は迷わず一本を手に取った。口にくわえたのを見計らって、ライターの火を寄せる。間もなく灯ったのを確認して、も唇で挟んだままの煙草を吸った。
 肺に煙を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。見上げた空はまだ真っ暗だが、とうに日付は変わっていた。雲のない夜空にチラチラと光って見えるのは、流星だろうか。
「そんな薄着で、風邪をぶり返して知らんぞ」
 さっそく小言を言われてしまった。
「今夜は流星群が見られるんだ」
「いつから星を見るような、ロマンチストになったんだ?」
 茶化してはいるが、声色は温かい。赤井は自分の上着を脱いで、の肩にかけた。優しさは心地良いが、相変わらず心配性な男だ。
「今夜は特別だ」
 上着を借りて、紳士の仕草で答えると、赤井は可笑しげに笑った。暫くの間、久しぶりの煙草を味わう。煙がふわりと風に吹かれていくのを見つめていると、夜に馴染む落ち着いた声が耳に届いた。
「灰原哀……志保とは、いつの間に仲良くなっていたんだ?」
「なんだ、急に」
 思い当たる節はあるが、なぜこのタイミングなのか気になった。だが赤井も誤魔化される気はないようで、もう一度煙草を吸った後、静かに口を開いた。
「この家に向かおうとしていた時、あの子が解毒剤を持ってきた。に飲ませてくれと言ってな。自分の言葉が信じられないのなら、に今話したままの説明をして薬を渡してくれと言われた。なら信じてくれるからと」
 神妙な眼差しだ。赤井の視線を受けながら、は煙草をくわえたままで唇を撓らせた。苦笑いが浮かぶのを自覚しながら、少し短くなった煙草を指に挟んで、細く息を吐く。
「……仲良く、というのは違う気もするが」
 言葉を濁すつもりはなかったが、どう言ったものかと少し考えたため、数秒を要した。
「何かあったのか?」
「いや……」
 は灰原哀が宮野志保だということを知っている。赤井が組織に潜入するために近付いた女性、宮野明美の妹だということも。アメリカで再会した時に、赤井から潜入について話してきたので、当時から明美と恋人関係にあったことも知っている。
「知り合った切っ掛けはコナンだが……阿笠さんとの付き合いで、顔を合わせる機会が増えてな。俺も小さい頃から関わっていただけに、あの人の発明するものに興味があった。時間がある時には誘いに乗っていたんだ」
 勿論、も暇ではないので毎回誘いに乗っているわけではない。しかし灰原がに対して警戒心を解き、打ち解けたのは、確実にそのことが切掛けだ。やはり顔を合わせて話をして、人となりを知っていくことは大きい意味を持つ。
「始まりは変声機だったと思う。俺が持っているものと、コナンが使っているものは微妙に違うからな。話のネタになったんだ。それ以来、誘われて遊びに行くことが増えた。それで、阿笠さんとの発明品談義の時に、あの子がお茶を出してくれるんだよ。そのうちに世間話をするようになった」
「ホォー……」
 何か言いたげな赤井の視線に、煙草を吸いながら首を傾げてみせる。すると、赤井は小さく息を吐いた。
「知り合った切っ掛けは理解できた。だが、それだけじゃないだろう?」
 つい最近まで顔見知り程度だった人間を、そこまで信用するのか。赤井の言いたいことが言葉よりも強く伝わってくる。
「まるで取り調べだな」
「お前のことを知っておきたいだけだ」
 そうきたか。赤井が真っ直ぐな言葉を向けるのは昔からだが、本音だからこその力を持っている。言われる度に内心で感心しているくらいだが、には他にも心当たりがあった。
「相手があの子だから、だろう?」
 ふう、と煙を吐き出す。淡く流れていく煙の向こうで、を見つめている目に問う。赤井は目を逸らすことなく、「否定はしない」と言って食えない笑みを浮かべた。
の言うとおり、両方だ」
 素直に認めることにしたらしい。言われなくても分かっている。どちらも本音だろう。

 は、宮野一家について積極的に調べることはしなかった。赤井が望まない限り、傍で見守る形をとってきた。赤井の両親と組織の関係性について、不用意に調べないと決めたように。
 赤井の思いを汲んだのだ。に繋がる手がかりを、組織に与えることになってはいけないという強い思いを。だから、自分の仕事の範囲外には手を出さなかった。単に赤井の望みを受け入れたということではなく、手を出すことで存在を知られる可能性が高まるのは事実だったからだ。
 ただ、それでも一時期、が安全を保てるギリギリの範囲で調べたことがある。赤井の正体が組織に知られてしまった時期だ。
 は当時のことを思い出しながら、どこまでを赤井に話そうかと腕を組んだ。
「……以前、こっちの組織の人間との遣り取りを、あの子に見られたことがある」
 赤井の表情が僅かに動いたが、は言葉を続けた。
「目撃されることは前提で装っているから、普通は見られたとしても気付かれることは無いんだが……あの子は常に組織の影に脅かされているから、敏感になっているんだろうな。……まあ、話していた相手の雰囲気が、一般人というには目立っていたのもあるが」
「……まさか、お前のことを話したのか?」
 信じられないという様子の赤井に、は肩を竦めて「仕方ないだろう」と答えた。
「あくまでもについてだがな。前々から隙のない人間だと思って、警戒していたらしい。コナンから元CIAであることを聞き出して、それが俺と仲間の遣り取りに勘づく要因になったんだと言っていた」
「なるほど」
「そういう流れで、お互いに全てではないにしろ、正体を明かしたわけだ」
 明かしたと言っても、赤井に言った通りとしての作られた経歴だ。コナンから聞いていることもあるだろうが、として生きていたことなどは一切話していない。
「最近になって、一枚の写真を見つけた。あの子にも関係する写真だ」
「写真?」
「若い頃の宮野夫妻と、俺の母親が映っていた」
「……なんだと?」
 さすがに予想していなかっただろう。驚いたように見つめてくる赤井に、は話を続けた。
「実物はあの子にあげたから、見たければあの子に言ってくれ」
 数人での集合写真。正確には記念写真だろうか。の記憶にあるものよりも若い母親の姿だった。朗らかで溌剌とした印象とは違って、一切の興味がないというのが伝わってくる表情が新鮮だった。男女が複数人映っているので、学会か、あるいは研究所の集まりの類いだろう。
「おそらく、日本で開催されたものだろう。服装から考えるとパーティーの可能性もあるが、それにしては面子が偏っている。一番考えられるのは学会関係だな。複数人で映ったものだったから、夫妻と母さんは親しい関係ではなさそうだ。もしかしたら、母さんは家の人間として出席したのかもしれない」
「主賓か……」
 家ならば有り得る話だ。更にその分野の知識を持っている人間とくれば、人選には頷ける。の母親の専門分野は科学技術だが、広い知識を持つ人だった。医学や生物化学の話題にも困らなかっただろう。
 写真に写っているのが若かりし頃の宮野夫妻だと気付いた時には、人の出会いとは不思議なものだと思い知った。人生の中で、ほんの一瞬すれ違っただけの人々。彼らの子ども達がこの街で顔を合わせているとは、夢にも思わなかっただろう。
「秀一」
「なんだ?」
「写真を渡した日に、少しだけ彼女が家族の話をしてくれた。考えてみれば当然なんだが、両親との思い出はほとんど無いらしい。組織から逃げて、偽名を使って生活している今、”宮野志保”を証明するものも少ないだろう。……無性に、やるせない気持ちになったよ」
……」
「きっと思い出も、姉とのものが占めているんだろうな」
 指の先で、煙草の灰が落ちて散った。それを目に映しながら、は赤井が組織を抜けた頃のことを思い出していた。

 宮野姉妹のことはどうするのかと尋ねたことがあった。関係者として疑われるのは確実だ、制裁を下されるのではないか、と。
 勿論、赤井は組織がただで済ませることはないと分かっていた。内部に居たのだから、に言われずとも、誰よりも分かっていただろう。だが、警戒を強めた組織にFBIが接触するのは厳しい。
 明美に関しては、それまでは比較的自由に過ごしていたが、赤井の件で危険人物と判断されて、ほぼ軟禁状態に。たとえばがサーバーを介して接触したところで、明美本人は動けない。
 そもそも、赤井から聞いていた明美の性格を考えると、自分だけ逃げることはしないだろう。妹の志保は人質のようなものだった。志保が捕らわれている限り、明美も逃亡しない。
 さすがのも、組織の施設に潜入して連れ出すとなると簡単にはできない。リスクも格段に上がる。自分一人なら可能だが、明美や志保の脱出は難しい。いくつか手段は思いついたが、赤井は最後までノーと言った。
 FBIとしての方針もあるので当然だが、それ以前に、赤井には絶対にを深く関わらせてはいけないという強い思いがあった。
 自身も、赤井は受け入れないだろうと思っていた。成功率は高く見積もって半々、が背負うリスクが大きいからだ。
 情報だけは伝えておくからと、宮野明美の所在に加えて、志保が移された研究施設の場所や監視状況について調べては、当時の最新の情報を渡していた。
 そうして暫く経った或る日、は赤井に最後の情報を渡した。特殊な環境下への潜入任務が決まったので、力になれるのはそこまでだった。
 やがては日本を出国し、行方を眩ませた。潜入の間は連絡手段を絶たなければならなかったため、赤井とも音信普通になる。
 明美が亡くなったのは、が行方を眩ませてから三ヶ月後のことだった。任務を終えたのは、それから更に一月後。事件として記事にもなったため、戻ってきたが明美の死を知らないままでいるはずがなかった。
 当時は酷くやりきれない気持ちになったものだ。デスクに座り、ただ時間を過ごしたのを覚えている。
 明美とは面識がなかった。特に思い入れも無い。だが、赤井のために力になりたいとは思っていた。例の組織に潜入するために近付いた相手でも、赤井なりに大切にしていたのは知っていたからだ。

「さすがに、あの子に当時のことは話せなかった。俺が話すのも違うだろうしな」
 何のことを言っているのか、赤井には分かっただろう。それまで景色を眺めていた目がに移った。
「お前……」
 言いかけた赤井を、首を振って遮る。
「気に病んでいるわけじゃない。心残りが全く無いと言えば嘘になるが……俺のせいで、なんて言う気はないから安心しろよ」
 明美とは無関係でしかないが気に病むのは、的外れだろう。それに、が自分の選択を後悔するのなら、赤井の選択はどうなるのだ。  それに、本当に後悔ではなかった。の胸の奥に残っている煤は、文字通り心残りだ。赤井のために全力で力になってやれなかった、そんな一方的な思いの欠片に過ぎない。
「それでいい。お前は充分に力になってくれた」
 真剣に言ってくる赤井に、有り難いと思いつつも苦笑いが漏れる。
「……なあ、秀一。お前の気持ちは分かっているつもりなんだ」
 が大きなリスクを背負って赤井のために行動することは、赤井の中では禁忌に近い。
 宮野姉妹のことも、たとえの手が空いていたとしても、ジンが積極的に絡んでいる案件に関わらせたくはなかったのだ。計画を提案した当時、赤井本人に言われた。きっとその思いは、明美が亡くなった今も変わらない。
 例えば赤井の偽装死の時のように、遠隔操作で関わるのならが協力することを願っただろう。あの時は赤井も最善だと判断して、自らを頼った。双方の考えが一致したのは幸いだったと思っている。
「分かっている分、腹も立つがな」
 冗談交じりに本音を言うと、赤井は承知していたように頷いた。
「だろうな」
 隣に立った赤井を見ると、思っていたよりも穏やかな顔をしていた。はもう一度夜空を見上げて、心に残ってしまったものを思い、目を細める。
「俺は、秀一のためなら何だってしてやりたい。……お前のためなら、何でもできるのに」
 最後は愚痴のようになった。もう心残りを作りたくはない。やれることは何でもしてやりたい。それが他でもない、赤井を助けるためならば。
 すると、横から剣呑な視線が刺さった。
「そういうところだぞ。リスクがあろうと、やろうと思えば大抵のことが出来てしまうから、俺はが動く前に止めるんだ」
 考えなしの鉄砲玉とそう変わらない言われ様だ。さすがに酷いのではないだろうか? そんなことを考えていると、赤井に腕を掴まれた。
「俺のために、危険な真似はするな」
 はやれやれと嘆息する。
「偶には背中を預け合って闘いたいものだな」
「それとは別だ。お前だけが負担を背負うことは御免だと言っているんだ」
 なるほど。共闘の選択肢はちゃんとあるらしい。は赤井の手を外させた。そのまま肩に腕を回し、宥めるように触れる。
「そんなことはしない。無謀なことは嫌いなんだ。お前が一番よく知っているだろう? それに、引き際は弁えてるぞ」
 幾分か短くなった煙草を唇に挟み、口端を上げて笑ってみせる。そんなを見て、赤井は深く息を吐いた。
「知っている。お前の判断能力も、実力もな」
 気は静まったようだが、神妙な面持ちで言われてしまった。なにか思い出しているのか、目の前には無い、どこか遠くを見るような凪いだ横顔。それでも、に応えるように背中に回された腕は、力強かった。
「子どもの頃にも、には助けられた」
 その言葉でようやく納得がいった。赤井を守るために犯人を撃った時のことが、今でも残っているのだ。
「秀一。それはお互い様だ。俺だってあの時、お前に助けられたんだからな」
 考えてみれば、CIAに属していたことも要因かもしれない。所属している組織は違えども、対立しているからこそ聞こえてくる話もある。
 はCIAの中でも特殊な部類で、暗殺のような任務もあった。内部の人間を相手に暗躍していた一人でもある。
 その一部を知っている赤井は、の仕事がどんなものだったのか想像に難くないだろう。FBI捜査官の立場からすると、多くを黙認していることになる。
 赤井は暫くの間、黙ったまま煙草を吸った。それを見守りながら話しかける。
「持ちつ持たれつ。そうだろう?」
 肩を軽く叩くと、赤井から柔らかい息遣いが漏れた。
「ああ。……志保のこと、礼を言う。俺が知らなかったということは、不在の間、代わりに様子を見てくれているんだろう」
「相変わらず勘が良いな。だが、阿笠さんの発明に興味があるのは本当だぞ。あの子との話も興味深いことばかりだ」
 そう言うと、赤井はようやく柔らかな表情を見せた。その顔に薄らと疲労の色を見つけ、目元に触れる。
「寝不足なのか? 帰ってきて早々、手間を掛けさせて悪かったな。だが、お蔭で助かった」
「それこそお互い様だろう。こっちも多忙を極めているお前に、頼み事をしていたんだからな」
 その言葉で、は工藤家を出る直前のことを思い出した。
「どうした?」
 不自然に動きを止めたことで、赤井が不思議そうに問う。
「悪い。頼まれていた物は工藤の家に置いてきたんだ。あのまま渡せない可能性があったからな」
「場所は?」
「秀一が使っているクローゼットの中だ。コートのポケットに入れた。それは良いんだが、念のためにと思ってロックを掛けたんだよ。解除方法は口外できないんだ。これから解除しに行っても良いか?」
「それは構わんが、俺でよければ取りに行ってくるぞ」
「二度手間じゃないか?」
「平気だ。は休んでいろ。部屋の中でな」
 念を押してくる辺り、ちゃっかりしている。を引き寄せたかと思うと、そのまま部屋の中へと促した。遠慮のない力加減が、本気で部屋に連れ戻そうとしているのだと分かる。
「もう少しいいだろ。空気が気持ちいいんだ」
「それはまだ熱がある証拠だ。……仲間からもまた連絡が入るんだろう? 眠れるうちに眠っておけ」
「二日間はオフだぞ」
「それでもだ。まだ体が熱い」
 背中をしっかりと固定されている。逃がす気はないらしい。
「分かった、分かった。秀一も戻ってきたら寝ろよ? どうせだから泊まっていけ」
「勿論。そのつもりだ」
 赤井に寝室まで連行されたは、大人しくベッドに横になった。戻ってくるまで寝ているようにと言う赤井に、気をつけて行ってこいよと返す。
 出て行く背中を見送りながら、遠くにある微睡みの気配を感じていた。



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2022.10.16 inserted by FC2 system

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