Buddy

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「あ、さんだ!」
 藤家に向かっている途中、子ども特有の軽やかな声に呼ばれた。声が聞こえた方を見てみると、コナンと馴染みの子ども達が連れだって歩いている。
さんもお出かけですか?」
 のところまで駆けてくると、光彦が尋ねてきた。
「まあね。君たちは阿笠さんの家に行くのかい?」
 交差点を渡って角を曲がれば、少し歩いた先に住宅街がある。工藤家や阿笠の家がある通りだ。
「はい!」
 予想通り、子ども達は元気いっぱいに頷いた。後ろから歩いて追いついたコナンはいつものテンションだ。相変わらず同年代の子どもらしからぬ達観した様子で、三人に付き合っている。
 に対して探るような視線を向けてくるのも、いつも通りですっかり慣れた。さり気なさを装っているところが、可愛げがあって嫌いではない。
「今日は博士の家で、泊まりがけの任務なんです!」
「任務?」
「流れ星が見れるんだぜ!」
 流れ星を見る泊まりがけの任務。子ども達の興奮具合に思わず瞬きをしただったが、答えはすぐに分かった。
「流星群か」
 週末に流星群が見られると、様々なメディアが報じていた。任務というのは、夜更かしをして流星群を見ることを言っているのだろう。もしかしたら夜空に降る星を数えるつもりなのかもしれない。
「今夜から明日が見頃なんだって!」
「双眼鏡も持ってきたぜ!」
「歩美も!」
「博士の家には望遠鏡もあるんですよ。それで、みんなで集まって流星群を見ることになったんです!」
「ほう」
 張り切って説明してくれる光彦の後ろをちらりと見れば、コナンは仕方なさげに肩を竦めた。
「それでね、今日はご飯も作るんだよ」
「カレーだぞ!」
 今子ども達の気持ちが伝わってくる会話に、もどこか癒やされる心地になる。子どもはパワフルで時に危なっかしいが、根が真っ直ぐなこともあり、見ていて飽きない。
「それは楽しみだな。任務、頑張れよ」
「はい!」
 三人の盛り上がりは続き、夕食のデザート談義に移る。どうやら歩美が持っている菓子店の紙袋は親から持たされたもののようだ。光彦や元太、コナンは飲み物を手分けして持っている。
「あいつら、流星群より食い物の話で盛り上がってるじゃねーか……」
 コナンが呆れ混じりに呟いた。からすればコナンの言動も面白くて飽きないのだが、本人は自覚がないらしい。つい喉で笑えば、大きな目がを見上げた。
「昴さんに会いに行くの?」
 がこの辺りを歩いている理由といえば、大抵は沖矢昴──赤井秀一を訪ねるためだ。コナンはそれを知っているので、先程から何の用事なのかと探るように見てくるのだろう。
「ああ。だが少し遅れるらしい。さっきメールが来て、中で待っているように言われたよ」
 コナンはそれを聞いて首を傾げた。
「今、いないんだ?」
「本業の方で、仲間と忙しくしていたらしいぞ」
 本業というのは、FBI捜査官としてという意味だ。コナンは正しく理解したようで、「そっか」と言って頷いた。
「おーい!」
「コナンくん、行きますよー!」
 いつの間にか灰原が迎えにきており、その目が「早くしなさい」と言外に訴えている。
「おー、今行く」
 結局、行き先が近いこともあり、は子ども達に付き添って阿笠の家まで送っていくことにした。

 四人を送り届けて、阿笠と軽く挨拶を交わしてから工藤家に向かう。合鍵を使って中に入ると、多忙の割には片付いていて、わずかな生活感が残っているだけだった。ちなみに、合鍵はのために用意されたものだ。赤井やコナンを通じて工藤夫妻とコンタクトを取り、許可を得て所持している。
 それに伴い、優作には現在の仕事に関する情報も含めて経歴を明かしていた。おかげで興味を持たれることもあるが、それはそれで楽しく付き合っている。彼は思慮深い人物で、が他言無用とした内容については妻の由紀子にも話していない。知り合ってからまだ日は浅いが、良好な関係性が築けていた。
「秀一はまだ帰りそうにないな……」
 いつも通り、好きに待たせてもらおう。シャワーと食事は済ませてから来たので、はソファで仮眠を取ることにした。


 発熱していることに気付いたのは、ソファで眠りについてから二時間ほどが経った頃だった。
 いくら秋とはいえ、それなりに温かい格好で暖房もつけているのに、寒気があるのはおかしい。風邪の引き始めだろうか。
 ──風邪薬、買ってくるか……。
 起き上がって窓の外を見ると、街は夕暮れ色に染まり始めていた。
 寒気があるということは、まだ熱が上がるのだろう。下手に放置して長引かせるより、薬を飲んで症状を落ち着かせて、早く調子を万全にした方がいい。
 それにしても、風邪を引いたのは何年ぶりだろう。ふと、そんなことを思った。思い返せば、体調を崩すこと自体が子どもの頃以来かもしれない。
 は一人静かに苦笑いを零した。風邪の原因は、思いたる節があるとすれば過労だ。このところ、特に多忙を極めていた。忙しいのはいつものことだが、諜報活動に加えて、連続して現場にも駆り出されていた。
 急遽入った任務で、まともに休息を取る間もなく別チームの応援指示で現地に入り、その後も諜報活動が続くというスケジュール。数ヶ月間そんな調子で、一段落したのが昨夜だ。
 無理が祟ったということだろう。同僚にも休息を取るように言われたばかりだ。は決して軟弱な体ではない。寧ろ体力も精神力も自信がある方だが、それでも限界はあるのだと実感した。
 ──仕方ない、オフは寝倒そう。
 充分な休息。結局はそれに尽きる。薬を飲んでゆっくり休めば、引き摺ることなく落ち着くだろう。ちょうど二日間の完全オフを得たところだ。一日目は睡眠と休息に費やそうと思っていたので、結局やることは同じというわけだ。
 しかしこれなら、自分の家に帰った方がいいかもしれない。生活には困らないが、赤井に風邪がうつっても悪い。自室の方が仕事や連絡も取りやすいので、今のうちに帰ろう。ついでにドラッグストアに寄って帰ろうか。そう考えて、心なしか重い体を起こした。するとその時、玄関のベルが来客を告げる。
 ──誰だ?
 赤井が帰ったなら、勝手に入ってくるはずだ。ドアの鍵は閉め直したが、赤井も鍵を持っているので開けて入ることができる。
 工藤家の来客に心当たりがないは、一先ず誰が来たのか確認することにした。念のために、マスク代わりとして赤井の部屋からマフラーを拝借する。
 その間も再び鳴ったチャイムに急かされるように、ようやく玄関に向かった。インターフォンについている画面を見ると、下の方に子どもの頭が見えかくれしている。ドアを開けると、コナンと一緒に子ども達が立っていた。
「どうした? 昴なら、まだ帰っていないぞ」
 が告げると、子ども達はたちまち残念そうな顔になった。コナンも昴の不在が意外だったのか、わずかに首を傾げている。
「何か用があったのか?」
「あのね、たくさんカレーを作ったから、さんと昴さんも呼ぼうと思って誘いに来たんだ」
「そうだったのか。折角誘ってくれたのに悪いことをしたな」
「ううん」
 気にしないでと、歩美は笑顔で言った。その時、コナンと目が合った。
「昴さんがまだ帰りそうにないなら、先に僕たちと食べてもいいんじゃない? 昴さんの分なら取っておくよ?」
「そうしようぜ!」
 せっかくの申し出だが、風邪気味の人間が混ざって子ども達にうつしでもしたら大変だ。
「悪いな。実は風邪を引いたみたいで、熱があるんだ。皆にうつすと悪いから、今回は遠慮しておく」
「えっ、熱があるんですか!?」
「だいじょうぶ?」
「ああ。まだそこまで体調に出ていないから、今のうちに自分の家に帰ろうと思っていたところなんだ。風邪薬も買っておきたいしね」
「博士のところに風邪薬あるんじゃねーか? なあ、コナン」
「え? まあ、この前博士が風邪引いた時のやつが残っているかもしれねーけど……」
「哀ちゃんに聞いてみようよ! 博士の風邪薬、哀ちゃんが買いに行ったって言ってたよ」
「よし。すぐもらってくるから、ここで待ってろよ!」
「あ、おい!」
「待ってくださいよ、元太くん!」
 コナンが止めようとするのも構わず、三人は走って行ってしまった。
「ったく、あいつらは……」
「……これは、阿笠さんに一言お断りした方がいいか」
 一人言のように呟くと、コナンが大きな溜息を吐いてから言った。
「ううん。さんは休んでて。僕、ちょっと行ってくるよ」
「そうか?」
「すぐ戻るから。後でまた来るね」
 コナンの言葉に甘えて、小さな背中を送り出す。人に接触するのも避けたいため、ここで待機することにした。


 ◇◇◇


 赤井が工藤家に帰ると、中にいるはずのが見当たらなかった。
 ここ暫くは多忙を極めていたようなので、てっきり仮眠を取っていると思ったのだが、リビングのソファにも、が泊まる際に使っている客室にもいない。赤井が使わせてもらっている部屋も見てみたが居なかった。
 ──マフラーが無いな。
 この家を出た日はそこまで寒くなかったため、マフラーは置いていた。椅子の背もたれにかけて出掛けたような気がするが、見当たらない。気のせいかと思ったが、クローゼットには仕舞っていなかった。
 ──か?
 困りはしないので構わないが、少し気になった。妙な違和感を覚えながら、バスルーム、トイレと回った後で一応優作の書斎も確認したが、いつも通り鍵が掛かっている。残すは図書館並みに本が収められている書庫部屋だが、赤井の中の違和感は大きくなっていた。
? いないのか?」
 呼びかけながら、携帯電話を取り出す。一度確認したきりで電源を切っていたので、ここに来るまでに何かメッセージが届いているかもしれない。そう思って電源を入れてみると、一通のメールが届いていた。からのものだ。
 内容は、風邪を引いたようで熱があるから、自分の家に戻って休むという旨が書かれていた。
 ──風邪?
 だからマフラーを持って行ったのか。一瞬納得しかけた赤井だったが、すぐにおかしいことに気付く。
 赤井が帰宅したとき、玄関にはの靴があった。確認のためにもう一度玄関に向かうと、やはりいつものように揃えて置かれている。
 今思えば、家に入る際に玄関の鍵が掛かっていなかった。は日頃から、防犯のために在宅であっても施錠する。それは赤井の留守中に部屋に上がる時も同様で、日本に移住してからも、そして留守の工藤家にあがる時もそうしていた。こうなると、ただの鍵のかけ忘れとは思えない。
 何かあったに違いない。赤井はそう確信して、玄関からの進路を推測しながら辿っていった。リビングの暖房は切ってあるが、室内はまだほのかに温かい。キッチンに行ってみると、コップの一つに使った形跡があった。がここに居たのは間違いない。
 ──使った形跡も、ここに居た痕跡も消さずに姿を消した……。
 靴を置いたまま行動しなければならない状況というのも妙だ。そう考えながら、メールを受信した時刻を見る。今から一時間ほど前だった。赤井は念のために、もう一度電話をかけることにした。携帯電話を操作しながら、の家に行くため外に出る。
 すると、日が暮れた暗がりの中で、門の向こう側に人影が現れた。
「昴さん!? よかった!」
「……コナンくん?」
 どこか焦った様子で声を掛けてきたコナンは、さり気なく周辺を警戒してから口を開いた。
さんが今どこにいるか分かる? 連絡とか来てない?」
「メールが一通届いていましたが。風邪を引いたみたいだから、自分の家に戻ると」
「それ、いつ頃届いたメール?」
「一時間ほど前です。……きみは、に何があったのか知っているということですか? ついさっき帰宅したのですが、本人の姿が見当たらないんですよ」
「じゃあ、まだ戻ってないんだね」
 思わぬ言葉に、立ち止まってコナンを見る。
がここに居たことを知っているんですか?」
「昼過ぎに阿笠博士の家に行く途中で、ここに向かってるさんと会ったんだ」
「そうでしたか……」
「昴さん、これからさんの家に行くの?」
「ええ。実は不可解なことがありましてね……。メールにも自宅に帰るとありましたし、先ずの家に行って様子を見てきます」
「僕も連れて行って!」
 赤井の声に被せる勢いでコナンが言った。コナンがここまで食い下がるということは、余程の自体が起きているということか。
「一体、何があったんです?」
 赤井が問うと、コナンは一度開きかけた口を閉じた。それでも話すべきだと井思い直したのか、改めて口を開く。
さんを夕飯に誘いに来た時に、風邪を引いたって聞いたんだ。それで博士の家にあった風邪薬を渡したんだけど、どうも別の薬だったみたいなんだ」
「なんだって?」
 俄には信じがたい話に、思わず問い返す。しかしコナンは真剣だ。赤井は一向に繋がらない携帯電話を一瞥し、留守番電話サービスに代わってしまった通話を一旦切る。
「つまり、その薬を飲んだことで、の体に何らかの問題が起こったかもしれないと?」
「渡しただけだから、まだ飲んでない可能性もあるけどね。さっきここに来た時、靴はあるのにさんが居なかったのを考えると、少なくとも何かあったのは間違いない。……昴さんが言った不可解なことって、このことだよね?」
「その通りです。……なるほど、鍵が開いていたのは、きみが既に中に入っていたからですか」
 靴を置いたまま行方知れずになるなど、他には説明がつかない。いや、の場合は身の危険が迫る可能性もあるが、それにしても靴を履かずに逃げるほど切羽詰まった状況とは一体何だ。
 そこまで身の危険が迫っていたなら、前もって自身が気付いていたはずだ。
「それにしても……姿を隠す必要がある薬とは、穏やかではありませんね」
 赤井は眼下のコナンを見つめる。
「一体何の薬を渡したんです?」
「それは……」
 コナンが言い淀むのを見て、赤井は諭すように話し始めた。
に電話が通じないんです。自らそうしているなら良いのですが、もしも携帯電話すら操作できない状況なら、病院に連れて行くなりしなければならない。何を服用したのか知っておく必要があります」
「そうだね……」
 コナンは知っている。直感でそう思った。念のためににメールを送っておこうと、携帯電話を操作する。コナンは今回の経緯を話しながら、その様子を見ていた。
「博士が言うには、箱は市販薬のもので中身も普通のカプセル剤だったって。僕も風邪薬に見えたから気付かなかった。灰原が買い物から戻ってきた時に僕たちがさんの話をして、そこで別の薬だったことが分かったんだ」
 風邪薬をもらってくると言って走り出した元太と歩美、光彦を追いかけて阿笠の家に戻ったコナンは、三人が阿笠から薬を受け取っているところに出くわしたという。
 目に入った箱に表記されている効能を見ると解熱と書いてあったので、発熱しているには丁度良いと思ったのだと。博士がどこから持ってきたのか見ていなかったコナンは、まさか中身が別物だとは思いもしなかったのだ。
 風邪薬は灰原が引き出しに保管していたが、そもそも薬は使い切っていた。残っていたのは箱とフィルムシートだけだったらしい。試作品のカプセル剤は箱に印刷されている風邪薬とよく似ていて、しかも今回は保存のためフォルムシートに包装していたというのだから、本物の薬のように見えたらしい。
 説明を聞くと、間違えても仕方ない部分が多々あった。薬の近くに風邪薬の空き箱が置いてあったのなら尚更だ。
 灰原が別の入れ物を探しに席を外している時に、ちょうど三人から話を聞いた阿笠が市販薬の箱に試作品を入れて渡してしまったということだった。
「効果は本来のものの半分以下で、それも一時的なものらしいんだけど、さんは体調を崩してたし、どんな症状が出るか分からないから急いで伝えたいんだ」
 想像以上にとんでもないことになっていた。赤井は内心で驚きながらも、冷静に状況を理解する。別の市販薬を取り違えたのかと思っていたが、まさか灰原哀──宮野志保が作った薬だったとは。
 勿論、彼女がを含め周辺の人間に害を与える気などないことはよく知っている。しかし組織に所属していた灰原が作りだした薬が、健康サプリの類いではないことは分かる。だからこそコナンも焦ってを探しているのだろう。
「なるほど。それで焦っていたんですね」
 そして、コナンがどうしても赤井に付いて来ようとする理由も分かった。しかしが姿を眩ませたことを考えると、望みを聞いてやるわけにもいかない。
「いずれにしろ、先ずはの行方ですね」
「昴さん、僕も!」
「駄目です。が姿を消したことを考えると、きみを同伴させるのは危険だ」
「待って!」
 赤井が車のキーを手にしたところで、灰原が走ってきた。
「灰原?」
「これを持って行って。あの人に飲んでもらって欲しいの」
 そう言って、灰原は手に持っているピルケースを見せた。中にはカプセルの薬剤が入っているのが見える。
「灰原、それってもしかして」
 驚くコナンの横で、赤井は冷静に尋ねる。
「……これは?」
「解毒剤……と言ったら何だけど、さんが飲んだ薬の効果を中和させる薬よ。彼が飲んだ薬、元々はこの薬の効果を見るために作ったものなの。発熱した状態だと通常よりも負担が掛かるだろうけど、安静にしていれば数時間で落ち着いてくるわ」
「……解毒剤とは、随分なものを作ったものですね」
「信じられないなら、あの人に私が今言ったことを伝えて。そして手渡すだけでもいいわ。あの人なら、私を信じて飲んでくれるはずだから」
 灰原の確信めいた言葉に、内心で驚く。
が?」
 いつの間にそこまで信頼を置く関係になっていたのだろうか。コナンも驚いた様子で灰原を見ている。ということは、は何らかの事情から秘密裏に彼女と接触していたのかもしれない。
「分かりました。今はの体調を優先です。……後ほど詳しく聞かせて頂きますよ」
 目を見て問う。すると灰原も、まっすぐに見つめて応えた。
「ええ」


 ◇◇◇


 激しい目眩がを襲う。全身を蝕む高熱や軋むような痛みは耐えられるが、目眩は平衡感覚を狂わせるため厄介だ。体が縮んでしまった今、普段の感覚を頼りに動くのも難しい。
 ──まったく、散々だな。
 ただ逃げるだけなら、普段はここまで苦労しない。いつも通り、身を隠して相手を把握するだけだ。だが今回は、風邪薬だと思って服用した薬のせいで避難もままならない状態だった。

 薬を飲んだのは一時間ほど前のことだ。それから暫くして呼吸が荒くなり、体に衝撃が走るような動悸の後、何とも言い難い感覚を覚えた。体の節々が軋み、激しい動悸が続く中で、は一時的に気を失っていた。
 数分で目を覚ましたが、額の汗を拭おうとしたところで異変に気付く。どうも、着ている服の様子が妙だった。オーバーサイズの服は着ていなかったはずなのに、袖が妙に長く、薄手のセーターも一回りほど大きいように感じるのだ。
 体調のせいで頭が上手く回らないながらも、さすがに奇妙に思い、水を飲むついでに鏡を見に行く。廊下にある姿見ほどの大きさの鏡で確認すると、なぜか自分が若返っているように見えた。意識が朦朧としているせいかとも思ったが、自分の体を触って確認してみると、やはり違う気がする。
 改めて鏡を見た。正確なことは分からないが、十代半ばから後半の頃に見える。
 心当たりは、あの薬しかない。博士からもらったことを考えると、もしかすると灰原哀──宮野志保が作った薬なのではないだろうか。それならば、若返った体の説明も幾分か理解できる。
 の症状から考えて、例のAPTX4869から派生したものである可能性が高い。

 この一時間の間に起きた出来事を思い返すと、自分の判断がどれほど鈍っていたか分かった気がした。
「なんてことだよ、まったく……」
 思わず出た声は酷く掠れていた。は荒くなる呼吸と目眩を堪えながら、自宅を目指していた足を止める。ここまで酷い目眩では、いくらまだ動けるといっても危険だ。周囲の状況がほとんど把握できない。無闇に動かない方がいいだろう。
 とはいえ、この症状は灰原に聞いていたものとも違うため、の体調が悪かったことや、何かの成分が体に合わなかったことが原因かもしれない。しかも、追手を撒くためにかなり動いた。
 幸いなことに今は追手も見当たらない。尾行や監視の気配も感じられない。工藤家の周辺を嗅ぎ回っていた者たちは、全員諦めたか退くように命じられたか。
 それにしても、日本の公安組織は何を持って工藤家を探っていたのだろう。後で調べておこうと決め、は手探りで携帯電話を取りだした。
 ──着信とメール……秀一からか、丁度良かった。
 赤井からの着信履歴の前にはコナンからのものもあり、おそらく薬のことだろうと察した。
 一先ず赤井に連絡を入れて、動けなくなった自分を回収してもらわなくてはならない。は朦朧としてきた意識の中で、赤井の番号を呼び出した。
「──、今どこにいる?」
 わずかに焦った口調で、開口一番に赤井は言った。声は沖矢昴のものだが、それでよかった。は鈍る頭の中で必死に考え、慎重に口を動かす。
 ほとんど力が入らないため、正しく喋れているかも定かではない。自分が話している言葉が日本語なのか英語なのかも意識から外れている中で、なんとか居場所を伝える。おそらく単語しか伝えられていないだろうが、赤井は理解したようで、「直ぐに向かう」と言った。
「昴、で……」
「ああ。分かっている。沖矢昴のままで行くから心配するな」
 

 いつの間にか意識を手放していたは、ぼんやりとした意識の中で体に掛かる力を感じた。重さではなく、浮遊感だった。
 力強い何かによって持ち上げられ、揺れながら動く体。堅く冷えたコンクリートの上で横たわっていた体が、やがて弾力のある場所に寝かされた。それからエンジン音が耳に入る。
 誰かに抱えられて移動していたのだと理解した時には、再び抱えられていた。息苦しさが少しだけ和らいだ気がしたが、にはそれが何故かも分からなかった。
 そのうちに淡く明るくなった視界に刺激され、力を込めて瞼を上げる。すると、眼鏡をかけた茶髪の男の顔が見えた。先ほど感じた力強い何かは、赤井の腕だったようだ。
?」
「──……」
 礼を言おうとしたが、ほんの少し身じろぎをして終わってしまった。体が鉛になったように重く、動かそうにも言うことを聞かない。頭も朦朧としている。遠くから声が聞えていて、名前を呼ばれていることは気付いていた。
、気が付いたか?」
 少し経ってから、また名前を呼ばれた。今度は言葉として聞き取れた。思考が鈍っているせいで相変わらず声は遠いが、沖矢ではなく赤井の声だった。馴染みのある声に、ようやく安堵が生まれる。
「……シュウ、イチ」
 辛うじて名を呼べば、ゆっくりと柔らかな場所に下ろされた。視界は悪いが、おそらく自室のベッドだろうと察する。傍にあった気配が離れたかと思えば、物音がした後にまた近付いてきた。
「解毒剤を預かってきた。すぐに飲んでもらいたいんだが、体を起こしてもいいか?」
 問われて、どうやったら応えられるのかと思案した後、わずかに頭を下げる。これでも頷いたつもりだが、実際はあまり動きに出ていないだろう。それでも赤井は「了解だ」と返事をした。
 背中に腕が入ってきて、体を起こされる。膝裏にも腕が入れられ、体勢を変えられた。少し開くことができた目を凝らして見ると、どうやら壁を背もたれ代わりにして起きている状態らしい。壁との間にはクッションが挟んであり、丁度いい具合に隙間を埋めていた。
「……」
 視界が大きく回る。意識は徐々にはっきりしてきたため言葉は理解できるが、反応できない。目の前がぐるぐると回るせいで、まともに目を開けていられない。頭痛や熱も相まって、脳が引っかき回されているようだ。
 思考もすぐに中断されてしまうため、意識はあっても頭が働かない。今思えば、工藤家の周辺をうろついている輩達を片付けた後に症状が悪化したのは、幸いだったかもしれない。
「水を飲み込めるかどうかだな……」
 赤井が誰に言うでもなく呟いた。ぼやけた視界で見た手には、ペットボトルのようなものが握られている。
 うまく水を口に含められるだろうか。そんなことを考えている間も、目の前が強引に回っては歪む。目を開けていられずに顔を顰めた途端、ぐらりと体が傾いた。
「おっと」
 倒れる前に赤井の腕が伸びてきて、そのまま支えるように肩に回される。
「悪いが、少し我慢してくれよ」
 は目を閉じたまま、近くで聞こえるようになった赤井の言葉を頭の中で反芻した。我慢とは一体なんのことだろう。
「水だ。少しずつ飲んでみろ」
 その言葉に、瞼に力を入れてもう一度目を開ける。の呼吸が比較的落ち着くのを見計らっていた赤井が、ペットボトルの水を飲んだ。
 同時に肩に回されていた手がの後頭部に移り、掌で首から支えるように固定される。一連の流れで、は大体のことを察した。
 ──風邪、うつりそうだな……。
 動きの悪い思考回路で、そんな考えが浮かぶ。それにしても視界が五月蠅くてたまらない。正直、すぐ近くにある赤井の顔もまともに目に映せないほどなので、は完全に赤井に任せるしかなかった。
 唇が触れると、すぐに隙間なく合わさった。冷たくて心地良いそこから、少しずつ水が流れ込んでくる。幾らか口端を濡らしたが、咽せることなく飲み込むことができた。
「飲み込めたな」
 もっと水が欲しい。そう思ったが、今は解毒剤が先だ。
「薬を入れるぞ」
 できる限り口を開けようと試みる。少し開いたそこに、遠慮なく赤井の指が入ってきた。指を上下の歯に引っかけて、こじ開けてからカプセル剤を押し込んでくる。
「……」
 赤井のすることなので、されるがまま任せているが、嘔吐かずにやりすごせたのが奇跡なレベルの手荒さだ。人命救助のようなものなので文句を言うつもりはないが。
「次は水だ。薬は飲み込めそうか?」
 おそらく飲み込めるだろう。赤井が舌の奥にカプセル剤を押し込んでくれたお蔭で、嘔吐きそうになる反面、飲み込みやすい位置にある。
 は頷いて、薄く口を開けた。近くで水音がした後、再び赤井の唇が重ねられる。流れ込んだ水で上手い具合にカプセルが滑り、舌と喉を使ってなんとか飲み込んだ。
 体はまだ渇きを訴えている。少量の水では足りない。もっと飲みたいという欲求が生まれ、炎の中から手を伸ばすように水を求める。必死で上がらない手を動かすと、耳元で声がした。
「まだ飲むか?」
 意識がはっきりとしてきたのか、声がずっと明瞭になった。素直に頷くと、また水音が聞こえた。
 ──いや、それはもういい。
 口移しは要らないと言いたかったが、赤井の方が早かった。素早く口を塞がれ、求めていた冷たい水が口の中に広がる。
「……」
 迅速な行動は有り難いが、まるで雛鳥にでもなった気分だ。そんなことを思いながらも、喉の渇きが満たされるのは確かで、体の軋みが解れていく気がした。互いに最初よりも慣れているのが笑いを誘う。
 水分を得て、張り付きそうだった喉に潤いが戻ってきている。まだ頭はぼうっとするが、大分良くなっていた。
 赤井の腕に手を置いて、そっと押し返すように動かす。
「もういいのか?」
 良いわけがない。もっと欲しいに決まっている。は手をペットボトルに伸ばした。残念ながら大して動かなかったが、意図は伝わったようだ。
「ペットボトルから飲みたいということか」
「……風邪、うつる……だろ」
 赤井はが何を言いたいのか理解して、苦笑いのような笑みを滲ませた。
「飲めそうか?」
 頷くと、すぐに持っていたペットボトルの飲み口をの口元にあてられた。
「俺が支えておくから、好きなだけ飲め」
 赤井の言葉に甘えて、ゆっくりと飲み進めた。まだ少し歪んでいる視界の中で、ペットボトルを持つ赤井の手が目に入る。随分とぼやけた見た目だが、今のの手より大きいことはすぐに分かった。本来ならそこまで大きさは変わらないというのに。
 思わず現実から逃避したくなる。解毒剤は飲んだが、果たして本当に元に戻るのだろうか?
?」
 遠くを見るような目で思考の波に流されていると、いつの間にか赤井が神妙な面持ちをして見ていた。
「大丈夫か?」
「……ああ」
「新しい水を取ってくる」
「助かる……」
 赤井を見送りながら、静かに瞼を下ろす。落ち着いたら、コナンたちに連絡をしておかなくては。解毒剤については灰原に直接話を聞きたい。
 そういえば、赤井から勝手に借りたマフラーは一緒にここへ帰ってきたのだろうか。気になって視線を巡らせると、ベッドの端に放られていた。よかったと息を吐いて、横になる。
 は動かせるようになってきた手を持ち上げて、弱った体には些か強い明かりに翳した。



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2022.09.25 inserted by FC2 system

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