ドリーム小説
 青い空。白い雲。一面に広がるのは眩いばかりの美しい海。
 いや〜、本当に凄いな! これがプライベートビーチってやつか。さすがは跡部グループだ。しかも景吾坊ちゃんの護衛を兼ねているとはいえ、俺までバカンスに同行&プライベート仕様でお供することになるとは。
 街中を歩くこともあるだろうから執事服はないだろうが、実はスーツでさえない服装で過ごすのってホント久しぶりなんだよな。前の職場ではオフの日には普段着で出かけたりしていたけども、執事に休日ってそもそも無いからね。
 肉体労働してるわけじゃないし、面白さを求めて自分から始めた仕事だから構わないけれども。寧ろ毎日すこぶる楽しいですけれども。
 ということで。冒頭部分で既に気付いているだろうが、ただいまご主人様と南の島に来ています。







 事の始まりは、先日の景吾坊ちゃん誘拐事件から数日後。いつものようにアハハウフフなノリでバカンスに行きたいと言いだした旦那様と奥様に因る。
 そもそも旦那様にそんな時間があるのかと思うところだが、家族と一緒にバカンスするためならば、それこそ鬼のように仕事をこなす人だ。周りにも優秀な部下が揃っていて、ごく偶にではあるが連休も取ったりする。
 その場合は俺にまでとばっちりがくるが、今のところ最大の被害者といえば旦那様の秘書だろう。毎日スケジュールをチェックして優先順位を付けたり、場所の確保や旦那様の昼食のメニューまで……涙が出そうだよ。
 あの人ホントいつか過労死するんじゃねーかな。一日オフを作るだけでもいっぱいいっぱいだとういうのに連休って、鬼か。
 とまあ、その話は置いといて。
 なぜ俺は南の島までバカンスに来ているというのに、別荘のバルコニーから眼下に広がる一面の海を眺めているのか。というのはまあ、俺のご主人様である景吾坊ちゃんのお側に控えているからに他ならないわけだが……。
「景吾様」
「いやだ」
 なんでさ。嫌だ嫌だ言ってる割にはさっきからずっと海見てんじゃん。泳ぐなり潜るなりしましょうよ。日に焼けるのが嫌なら、日焼け止めくらい塗ってあげるよ俺。なんだったらパラソルだって用意するぞ。
 せっかくのプライベートビーチなんだから楽しまなきゃ損ってもんだよ。俺なんか海にくること自体すごく久し振りで内心ワックワクだぞ。
「では、せめて近くまで行きましょう。美しい魚が見られますよ」
 水槽で見る熱帯魚より遥かに興奮するぞ。と、半ば俺自身の希望も織り交ぜて言ったのがダメだったのか、景吾坊ちゃんはビクッと肩を跳ねさせた。
「そ、そうやって騙そうとしてもムダだぞっ」
「さて、何のことでしょう。私は景吾様を騙す気などありませんが」
「ウソだ!」
 そんなハッキリと言いきられると流石にへこむんですけど。え、俺ってそんなに信用ないのか。……まさか、まだパーティーのことが尾を引いているのか。
「なぜ嘘だと?」
 少しばかりショックを受けながら平静を装って尋ねてみると、なぜか坊ちゃんは更にビクリと肩を震わせた。
 ……言っておくが、俺は嘘なんか吐いたことはないぞ。
 ましてやご主人様である景吾坊ちゃんを騙すだなんてそんな。無い無い、と心の中で否定していると、景吾坊ちゃんが振り向きざまに叫んだ。
「初めてここにきた時、父さんに誘われて近くまで行ったら海に落とされたんだ!!」
 旦那様なにやってんだ──!! 景吾坊ちゃんまさかの海恐怖症になってんじゃねーか!! どーしてくれんだ、アーン!?
 心の中とはいえ、怒りのあまり叫んだ俺は決して間違ってない。
 当時の苦い記憶を思い出してしまったのか、若干涙目になっている景吾坊ちゃんを努めて優しく宥める。可哀想に。初めての海水浴がとんだ思い出になっちまって……。
 苛立ちからなのか恐怖からなのか、微かに震えているご主人様の背を撫でると共に、先程から扉の向こう側に張り付いて室内を覗き見ている旦那様に視線を向けた。途端に逸らされたが、旦那様はそれで大人しく退散するような人ではない。どうせ何か話があるんだろうと考えていると、案の定、僅かに開いている扉の隙間から『来い』とジェスチャーをしてきた。
「景吾様、少しお側を離れても宜しいでしょうか」
「な、なんだよ。仕事か?」
 どうだろう。仕事といえば仕事だが。……いや、仕事か。いくら普段着に近い格好でバカンスといえども一応俺は仕事中だしな。
「すぐに戻ります」
「……本当にすぐ戻ってくるんだろうな?」
「お約束します」
「……」
 なんだいその沈黙は。無言でじっと見つめられるのは初めてではないけども、何故だ。
 まさかの信用されていない説が当たっちまったのか。まさかぁ。と思いつつも、シンと静まり返った室内で未だ俺を見上げる景吾坊ちゃんがいるわけで。
 ……え、まさかだよな? 本当に信用されてないってことはないよな?
「景吾様?」
 このタイミングで俯かれたら俺困るんですけど……ていうか、さっきから旦那様がずっとドアの向こうにいるんですけど。なんかニヤリって笑っているのだが。いや待て、奥様もいるな。
 勿論、景吾坊ちゃんは背を向けていることもあって気付いていない。いや普通は気付かないだろうが。
 まあ、二人の存在に気付いていない方が都合がいいか……。
 俺は別に見られても流せるし困ることなどないが、景吾坊ちゃんは意外とシャイな一面があるというか、ツンデレだから時々しか本音を言ってくれないのだ。両親に見られていると知ったら余計に拗れるからな。
 デレる前段階としてのツンだとしても、景吾坊ちゃんの場合その時の機嫌でツンがゼロにも百にもなるんだよ。何度も言うようだが、ツンがゼロの時はマジ天使だからな!
!」
 はい、なんでしょうか。俺は一体何をやらかしたんでしょうか。応えるようにその場に跪いて、なんだか知らんが意を決した様子のご主人様の言葉を待つ。
「お前、俺の執事を辞めるのか?」
 なんだって? 誰がそんなデマを言ったんだい坊ちゃん。……まさかとは思うが旦那様か? チラリとドアの向こうに目配せをすれば、否、と答えが返ってきた。だよなぁ、旦那様なわけねーよなぁ。
「どなたからその様な話を?」
「っ……ほ、本当なのか!?」
 待て待て、早まり過ぎですよご主人様。どーしてそうなるかねえ。取り敢えず、景吾坊ちゃんは辞めてほしくないって思ってくれてるんだよな? 俺の信用問題じゃねーんだよな?
 でも、俺は景吾坊ちゃんの為にいるんだぞって言ったにも拘わらずこの流れってさ、ある意味信用されてないとも取れるのか?
「私は、その様なことを考えたことも、口にしたこともございません」
 言葉が足りないとか温度差がどうのこうのってよく言われるから、かなり直球で伝えたつもりだったんだが……。
 もっと? 更に直球勝負じゃないと伝わらねーってこと? ハッ、それとも俺を陥れようとする人間があの屋敷にいるとか? 俺のご主人様を誑かそうなどと、ええい、痴れ者めがァ!!
「もう一度お尋ねしますが、どなたからその様な話をお聞きになられたのです?」
 許すまじ、と内心で一人滾っていると、景吾坊ちゃんは口を真一文字に結んで黙ってしまった。
「景吾様」
 言ってくれないと分からないじゃないですか。いやまあ自分で調べようと思えば出来ますけども、ここはやっぱりご主人様の口から聞きたいというか。
 旦那様と奥様もすぐそこに待機したまま聞き耳立ててるし、折角のバカンスなんだから楽しみたいじゃないか。海が恐いなら波打ち際を歩くだけでもいいし。というか、辞めるとか辞めないとか出所不明の噂が立っている以上、俺も心から楽しめないしさ〜。
 良い思い出を作るためにも話してください、という思いを込めて景吾坊ちゃんの手を優しく包むと、ようやく顔を上げてくれた。
「……パーティーの時に、聞いた」
「どなたから?」
……」
 俺? いやいや有り得ないですよ坊ちゃん。寧ろその逆だし。俺としては生涯仕える勢いですからね。もうアレかな、俺の忠誠ってプロポーズするくらいの言葉と態度で挑まないとご主人様には届かないってことなのか?
「……と、一緒にいた女が言っていた」
 なーんだ、やっぱりな。俺じゃなかった……じゃねえよ! 犯人はアイツか!
 とは思ったものの、次の瞬間には何故アイツがという疑問が浮かぶ。確かに俺はアイツに今の仕事について話したが、凄く充実していると言ったはずだ。誤解を生むようなことを言った覚えはないし、不満や転職話など以ての外である。
 だったら何故と珍しく考え込んでいると、痺れを切らした景吾坊ちゃんが、その時の様子を話してくれた。
 曰く、パーティーが始まって暫く経った頃、所用で景吾坊ちゃんの傍を離れた時に出くわした俺たちの会話を聞いていたらしい。
 まあ、それが分かったところで、更に何故と思うわけだが。
 結果的にいうと、どうやら景吾坊ちゃんは勘違いをしているらしい。
 俺たちは会場から少し歩いた場所の廊下で話していたと思うのだが、景吾坊ちゃんが偶然耳にしたというならば曲がり角か空き部屋にいたことになる。まあ、俺たちの様子を見ていたということから考えても、部屋の中で聞いていたという線はないが。
 角までは距離があったし、きっと殆ど聞き取れなかったのだろう。
 しかし、予想外の告白だな。まさか、ここであの誘拐騒動に結びつくなんて思わないじゃないか。アイツとの仲(?)と転職(?)を勘違いして俺を避けてたなんて。
 普段から洞察力に長けていて慎重な景吾坊ちゃんからは考えられない早とちりだ。俺がアイツとどうこうなんて、これッッッぽっちも有り得ないというのに。
 そもそもアイツの性別からして勘違いしてますよ、景吾坊ちゃん。
 アイツ、あんな外見をしていますが男ですから。
 中性的な整った顔立ちと、着痩せするため一見すると細身の体格。しかし脱げば鍛えられた筋肉がついてるし、俺と並ぶと低く感じるかもしれないが、実はそこそこ普通に身長もある。声は高めだが、女性にしてはハスキーだし、俺と同じ立派なモノもついてるからね。
 ちなみに声と中性的な顔はアイツのコンプレックスだ。アイツが言うには俺は理想らしい。訓練時代の頃は特に、話すたびに羨ましがられていた。
 今思えば、社会不適合者のごとく浮いていた俺に率先して絡んできた奇特な男だ。
「景吾様、先ず訂正致しますと、彼は男性です」
「……男?」
「はい。彼は訓練時代からの同期であり、以前の職場の同僚です。私と比べて小柄ですが、男性ですよ」
「……確かにスーツだったけど、でもすごく親しそうだったぞ。がアイツの手を取って腹なんか撫でるから、てっきり……」
 ん? 手を取る? 腹を撫でる? あー、そういえば。仲間内で集まったとき酒飲み過ぎたとか言うから、ビールっ腹にでもなったか? みたいなノリで触ったな! 摘もうとしたら手で邪魔されたから封じたし。
「こ、子供ができたのかとか、もしかして結婚していたのか、とか」
「有り得ません」
「……そう、だな」
 そうですよ。というか、恋人なんていたら執事はやりませんよ。いくら面白そうだからって、結婚考えてるくらいの恋人がいて執事はないよな。新しく養成学校はいらなきゃならん上に、働き始めたら住み込みだし、休暇なんて無いに等しいし。
 多少危険は伴うけども前の職場にいると思うぞ。昔と違って結婚はできるだろうが、一緒に住むとか無理じゃね? 結婚生活的な意味でいろいろ。なにせ俺の場合は護衛も兼ねてるしさ〜。
 あ、そうそう。この間の騒動もあって、実は俺の部屋が景吾坊ちゃんの隣になったんだぜ。これはマジで嬉しい誤算だった。
「じゃあ、はこれからも俺の執事なんだな」
「勿論です。景吾様がお許しになる限り、お仕えしたいと思っております」
 よかった。ようやく分かってくれたらしい景吾坊ちゃんにホッと胸を撫で下ろす。なんだか色々と誤解されていたらしいが、要はヤキモチを焼いてくれたってことだろう?
 俺としては嬉しい限りなんですけど。まさかのデレ期が。万年筆の謎は残っているが、まあいい。嫌われたわけじゃないなら良いんだ。これで少しは俺のことを信用してくれるんだろうし。
 そんなことを考えていると、ゴホン、というわざとらしい咳払いと共にノックが聞こえた。ああ、そういえば旦那様を待たせたままだった。


 ◇◇◇


 誰から聞いたのかと問い返してきたに、否定しないんだなと思うと胸が痛んだ。目を見開いて、戸惑いを隠しもせず詰め寄ってしまったが、どうやら俺の勘違いだったらしい。
 ──くそ、本当に何をやっているんだ俺は。跡部を継ぐ者として、もっとしっかりしなければ。
 分かっているのに、どうしてもの前だと調子が狂う。普段はこんな俺ではないのに、やはりには通用しないということなのか。取り乱すなんて、本当に俺らしくない。
 だが、こうして改めて俺に仕えると言ってくれたことに安堵している自分がいる。勘違いして一方的に無視した挙げ句、まんまと誘拐された情けない主だというのに、は跪いて真っ直ぐに俺を見つめて言った。
 俺の許す限り傍にいる、と。そんなもの、許すも許さないもないだろ! 俺だって、お前以外の執事なんて要らないんだからなっ!
 じわりと心に沁みるものを感じて、尚も見つめてくるを負けじと見つめ返す。……くそ、やっぱりは動じないな。
 そう思った時だった。ドアをノックする音が聞こえたかと思えば、跪いていたが静かに立ち上がった。つられるように振り向いた先には父親と母親が揃っていて、そこで漸くには仕事があったのでは、と数分前の会話を思い出した。
 ……まさか、父さんと海に行けということか? 数年前の記憶が蘇り、思わず身震いしてしまう。嫌だ、絶対に行かない。とならまだしも、父さんとなんて絶対に嫌だ。
 そう思っているのが顔に出ていたのか、さり気なくの手が背を撫でていく。さっき打ち明けた父さんとの出来事を気遣ってくれたのだろうか、いつもは後ろに控えているが、俺を庇うように前に立った。
「伺うのが遅れてしまいました。申し訳御座いません」
「ああ、構わないよ。景吾の海嫌いについて話してなかったと思ってね。用件はそれだけだったんだよ」
「なっ、オレは父さんのせいで……!」
 何を言い出すのかと思えば、まるで俺が臆病者のような言い方ではないか。まさか、あること無いことに話すつもりだったのでは、と思うと苛立ちで口元が引き攣るのを感じた。
「そう怒らないでくれ。私も悪いことをしたと悔やんでいるんだ」
「……」
 とても信じられない。……が、父親の困った顔など初めて見たこともあり、仕方なく溜飲を下げることにした。まあ、二度と父さんと一緒には海に入らないが。
 母さんも同じだ。この二人と海に出たら最後、目の前でイチャつかれるに決まっている。現に、今こうして話している間も腕を組んでいる始末だ。まったく、いい加減にして欲しい。
「しかし折角のバカンスだ。にも軽装をさせているのは、お前に楽しんでもらう為なんだぞ、景吾」
「……も?」
 そういえば、家を出る時から少なからず気にはなっていたが何故なのかは聞かなかった。バカンス先では執事服だと不似合いだからだろうと勝手に思っていたが……もしかすると、も一緒に海に入ったり街を歩いたりしていいのだろうか。
 見上げた先には、俺の心を読んだかのように頷くがいた。
「……まあ、となら」
「決まりね! さあ、行きましょう」
「母さん!?」
 待っていたかのように俺の手を取って先陣を切る母親に、思わず驚いて声を上げる。当然のことながら父親は驚いていない。もいつも通り涼しい顔をしている。
お、俺はと一緒に行くつもりだったんだぞ! 一番厄介な母親に捕まってしまった俺の絶叫は、哀しいかな、声に出ることなく俺の頭の中で木霊するのだった。


 数十分後、俺は海面より少し高い岩場に座っていた。
 岩場といっても断崖絶壁などではなく、足場程度のものだ。足を垂らせば海水に浸かるし、透き通っているため家で飼っている熱帯魚のように美しい魚たちが見える。俺の側には、さっきよりももっとラフな格好をしたがいて、濃紺の髪は水を含んでいて黒に近い色になっていた。
 羽織っているだけのシャツから見える身体は鍛えられていて、この間の誘拐犯をあっという間に倒したのも頷ける。考えたことはなかったが、は護衛も兼ねているらしいから、普段から鍛えていても別段おかしくはない。
 もしかして、俺が知らないだけで仕事の合間や夜間にでもトレーニングをしているのだろうか。それとも、俺がテニスをしているように、も何かスポーツをしていた経験でもあるのだろうか。
「景吾様、お疲れでしたら日陰にご案内しますが」
 パシャ、と僅かな水音をさせてが近付いてきた。相変わらず何を考えているのか読み取れない顔で、それでも俺のことを心配しているのだろう、声が優しい。
「いや、疲れてるわけじゃない」
 母親のテンションには疲れたが。こうしてと過ごしていると、少し落ち着いた気がする。
 泳いだり潜ったりとなると未だにあの時の記憶が蘇りそうになるが、水に足を浸けるくらいは出来るようになった。まったく、俺はちゃんと泳げるし潜水も出来るというのに。あの父親の所為でとんだ事になったな……。早くあの恐怖体験を克服しなければ、このままではいい笑いものだ。
 そんなことを考えていると、不意に頬に温もりが触れた。
「やはり、恐いですか?」
 そっと触れた指先が顔にかかった髪を流して離れていく。何もかも見透かしたような目で見つめられると、つい意地になってしまうのは俺の悪い癖だ。
 フイ、と顔を逸らせば、景吾様と呼ばれる。俺は話題を変えたくて、咄嗟にさっき考えていたことを口に出した。
はトレーニングでもしてるのか?」
「なぜ?」
「体、すごく引き締まってるから。普通の執事はこんなにしっかりした筋肉はついてないだろ? いつ鍛えてるのかと思っただけだ」
 跡部に仕える執事は決して暇な職業ではない。とはいえは護衛も兼ねているのだ、トレーニングをして鍛えていても驚くことではない。寧ろ当然とも言える。
 だが仕事が仕事だ。いつトレーニングをしているんだと思うだろう?
「このような体つきになったのは、前職の関係が大きいでしょうが、強いて言えば就寝前でしょうか。最近はミカエルに指導する時間を頂いておりますので、それもまた体型維持の一環に含まれるかもしれませんね」
 話題を変えたことには触れず、はそう答えた。
 そういえば、前は何の仕事をしていたのか詳しくは知らないな。誘拐事件の時の見事な動きを考えると、護衛だろうか。それにしても、何故ミカエルなのだろう。というか指導までしていたのか。淡々と話すものだから、うっかり聞き流すところだった。それなら尚更、相当激務なはず。
には休日というものはないのか?」
「全くないわけではありませんが、特に必要ないと思っております」
「……そういうものか?」
「寮生の時から休日などあってないようなものでした。時折フェンシングの手合わせなどはしましたが」
 フェンシングか……。そういえばまだやったことがないな。
物心つく頃にはラケットを振っていたこともあり、テニスは俺の生活の中でも大半を占めている。一通りのスポーツはやるつもりだが、まだ年齢的にも少し早いからだろうか、フェンシングはやったことがない。
 今度父さんに言ってみるか。
そう思った時、微かに聞こえてきた音に顔を上げれば、ビーチに近い所に見知らぬカメラマンがいた。……いや、見たことはある、かもしれない。おそらく母親が手配したのだろうが、正直いい気はしない。
 写真を撮られて困るわけではない。どうせプライベート写真だ。だが、俺の知らない間に一方的に撮られるというのは気に入らない。
 別の場所に移動してもきっと付いてくるのだろう。そういう仕事なのだから仕方ないんだろうが……早く父さんと母さんの方に行って欲しいものだ。
、向こうに行くぞ!」
 そう言って立ち上がったはいいが、うっかり足場が悪いのを失念していた。途端にグラリと傾く視界。あっという間によろける体。そして、蘇るあの時の恐怖。反射的に目を瞑ってその時を覚悟したが、俺を包んだのは海水ではなく、力強い温もりだった。
「大丈夫ですか?」
 パシャン、と足元に触れた水が俺を現実に引き戻す。落ちそうになった体はに抱えられていて、足首が少し浸るくらいの位置で支えられていた。
 すぐ近くから聞こえた声に小さく頷くと、そのままゆっくりと下ろされる。ちゃぷ、と水に包まれていく身体。一瞬だけ震えそうになったが、がついていると思うと、不思議なことに震えが止まった。
 足が底の砂を踏む頃には腹まで浸かっていて、無意識にフッと息が漏れる。
……」
 思わず笑みがこぼれ、溜息を吐くように呼べば添えられていた掌が優しく髪を梳いていった。
 離れた手を無意識に追えば、キラキラと光る美しい海と青く澄んだ空、そして────え、がお……?
 俺を見下ろす視線は真っ直ぐに、力強くも温かい。漆黒の瞳がこんな風に細められているのを、俺は初めて目にした。本当にごく僅かだが唇は弧を描いていて、それで、それ……で────


「う、ん……」
 くぐもったような、言葉とも取れない自分の声でぼんやりと視界を映す。なんだ、俺は一体……。
「お気付きになられましたか?」
「……」
 聞き間違いかと思ったが、衣擦れの音と共に聞こえたのは間違いなくの声で、少し視線を動かすとサイドテーブルに置かれる本。
 その様子を見つめていると、淡い色のワイシャツが視界に広がった。
……?」
 額に触れてくる手を感じながら名前を呼ぶ。おかしい。今まで海にいたのに、なぜ俺は部屋のベッドで横になっているんだ。
 せっかくが笑って……あ、そうだ! が笑ったんだ!
 …………。いや、間違いない。目覚めたからって夢だとは限らないだろ。……夢……いや夢じゃない。そんなオチなんて俺は認めないからな!
「景吾様、ご気分は如何ですか?」
「……、俺は海にいたはずだよな」
「はい。ですが途中で気を失ってしまわれて。大事に至らず安心致しました」
 気を失った? じゃあ、が笑ったのは夢じゃないんだな?
 ……いや、ダメだ。夢じゃなくても記憶が曖昧でいまいちハッキリと思い出せない。そうだ、写真。あれは絶好のシャッターチャンスだった筈だ。あのカメラマンなら撮っているはずだ。撮ってる、よな……?



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