ドリーム小説
 執事の朝は早い。主人である景吾坊ちゃんの身の回りのお世話をする前に、厨房や跡部邸の諸々のチェックをするという仕事がある。厨房などは、それこそ仕入れた食材のチェックからその日のメニューの確認まで。俺が全てチェックするわけではないが、パーティーやお客様が来るから、日頃からシェフたちによる報告を聞いたり打ち合わせをしたり。
 屋敷内のことはメイド長に一任しているので、使用人全員が集まったところで代表して彼女から報告を受け、今日も一日よろしくと挨拶をする。いわゆる朝礼というやつだ。その際に跡部家のお抱えの運転手に一日のスケジュール確認も済ませて、朝食の用意が整う頃合を見計らって景吾坊ちゃんの部屋へ向かうのだ。
 鏡で自分の身なりをさり気なくチェック。よし、完璧。
 日が昇り始めて、まだ眠っているだろう景吾坊ちゃんを起こすべく部屋へ向かう。柔らかい光が差し込み始めた廊下を歩くこと数分。今日も清々しい朝だなー、と思いながらドアを開けた。







 苦しそうに繰り返される浅い呼吸。体温の上昇で赤くなった頬。熱に浮かされているんだろう、俺を見上げる眼差しはいつもと違ってぼんやりとしている。
 しまった可愛い。……じゃなくて、一大事だ。
 どうやら俺の可愛いご主人様は風邪を引いてしまったらしい。そっと額に触れると明らかに俺よりも高い体温が伝わってきた。もはや子ども体温とか言えるレベルではない。
「失礼」
 常備している体温計を取り出して景吾坊ちゃんの脇に挟む。え?なんで体温計持ってるのか? 常備しているのは体温計だけじゃないぞ。
「……
 間もなくピピッと鳴った体温計を取り出せば38.9。マジか。思ったよりも高い熱で驚いたが、既に医者には連絡を取っている。旦那様が仕事に行く関係で奥様も今は居ないが、送り出した後に戻ってくるだろう。
 不安げに揺れる瞳を見つめると、心なしかうっすらと涙が滲んでいて、思わず「うっ……」となった。
「心配には及びませんよ。ただいま主治医を呼んでおります。おそらく風邪を召されたのでしょう」
「かぜ……」

 そうだぞ。熱は高いが変な咳はしていないし意識もはっきりしてるし。だからそんなに不安そうな顔をしないでくれ。離れ辛くなるから。こう見えても俺は小動物に弱いんだ。
 置いて行かないでみたいな顔されると俺マジ困る。執事たる者、情けない顔をするわけにはいかないのでキリッと気を引き締めて、改めて景吾坊ちゃんを見ると何故か熱の所為とは思えぬ涙を浮かべていた。奥様はまだかー! こういう時こそ母親の慈愛に満ちた優しさだろ! バファリンだって半分は優しさで出来てんだぞ!
 奥様マジでどこ行った。旦那様を見送りに出ただけなのに何でこんなに───……まさか、また行ってらっしゃいの挨拶が長引いでマジモードに入ってんじゃないだろうな?
「……っ」
 俺の荒ぶる心とは正反対に、微かに聞こえた泣きじゃっくり。そしてアイスブルーの瞳を覆って零れ落ちんばかりに溜まった涙。
 困ったな〜、と内心で呟きながら零れてしまう前にそっと滴を拭う。
「どこか痛むのですか?」
 できるだけ優しく言ってみたが、俺の思いもむなしく……というか、寧ろ引かれているような気がする。なぜだ。
 掛け布団の端をぎゅっと握りしめる幼い手にガラにもなく焦る。といっても見た目は無表情だから景吾坊ちゃんも後ろに控えている世話役やメイドも気付いていないだろうが。
 ──さて、どうしたものか。
 氷枕を頭の下に敷きながらそんなことを考えていると、ドアをノックする音と共に医者が入ってきた。どうやら彼の到着で戻ってくるのが遅れていたようで、その後ろには奥様とメイドの姿がある。
「景吾、具合はどう?」
 邪魔になるだろうと思い立ち上がって奥様に譲り、取り敢えず今までの経過を医者に伝えて俺は側に控えていた。
 やはり風邪だったらしく、医者が奥様にその旨を説明している内容を自分も頭に入れながら今日の予定を組み直す。そしてメイドや世話役が坊ちゃんの着替えなどを行っている間に運転手やスクールへの連絡を済ませ、旦那様にも容体を伝えておいた。未だに涙を滲ませていた坊ちゃんを思うと非常に心苦しいが、これも仕事なので仕方ない。
 出来る限り素早く諸々の用事を済ませ、なるべく景吾坊ちゃんの側に居られるようにと雑務を終えて部屋に向かうことにした。
「ああ、様!」
 滅多に慌てることのない世話役の男が、俺を見つけるなり血相を変えて駆けてきた。
「何事です?」
「申し訳ございません。景吾様が、様をと……」
 つまり景吾坊ちゃんは世話役の中でも仏のように温厚なマシューが慌てふためくほどの勢いで俺を呼んでいると。そういうことかね。
 ていうかなぜ。俺、部屋出てからまだ三十分くらいしか経ってねーのに。まさかさっき泣いてたのを放ってきた件で坊ちゃんに叱られるのか俺。内心で呻っていると、俺の後ろから付いてきていたマシューが「ひっ……」と妙な声を出した。
「あ、あの、様っ」
「なんです? ああ、本当に……ここまで声が聞こえてきますね」
 何があったかは知らないがドアを挟んでいるのに廊下まで泣き声のような怒鳴り声のような。いや、これは癇癪に近いかもしれない。いつも子供らしくないとさえ思える冷静さをお持ちの坊ちゃんが泣きわめく日がくるなんて。
「も、申し訳ございません!!」
 え? ていうか、さっきから何で謝ってんのマシュー。腰がすごいことになってるぞ。直滑降でもする気か?
「謝罪などする必要はありませんよ、マシュー」
 寧ろなんかゴメン。俺が席を外していたから景吾坊ちゃんの世話を代わりにやってくれていたのに謝らせちまったし。
「なにか喉にいい飲み物を。これだけ叫ばれていたら、きっと痛めてらっしゃるでしょうから」
「は、はい! 承知致しました……!!」
 いやそこまで全力で致さなくても、と思った時には既に駆け出していて、もう年なのに大丈夫なのかと少し心配してみたり。おっとそんな場合じゃなかった。
 ドアをノックして室内に入れば、俺が来るのを待っていたらしい様子のメイドが数人。
そして奥の寝室からは景吾坊ちゃんと奥様のやり取りが聞こえてきた。一応、失礼致しますと言って入ってきたのだが、この分では聞こえていないだろう。なにしろご主人様の取り乱しようといったら。きっと熱の所為で自分でも何言ってんのか分かってねーんだろうなぁ。
「奥様、景吾様、失礼致します」
「ああ、。よかった、この子ったら泣くばかりで……念のためにもう一度熱を測ってるんだけど」
 その時ちょうど測り終わったようで、奥様は泣きじゃくる景吾坊ちゃんの脇から体温計を取り出す。
 ──三十九度。まあ、上がってるとは思っていたけれども。
「薬は、もう?」
「それがねえ、こんな状態じゃ飲ませることも出来なくて。取り敢えず果物だったら食べれるかと思って用意せているのだけれど」
 苦笑いを零し、困り果てたように言う奥様に促されて交代した。向かい合うように腰を下ろすと、熱に浮かされている坊ちゃんは俺にしがみ付き、未だ落ち着かない様子で目に涙を溜めた。
「お待たせして申し訳ありません」
っ……」
 小さい体に手を添えて凭れさせるようにすれば、徐々に景吾坊ちゃんの体から力が抜けてきた。泣いていた余韻で時々ひくつく背を宥めるようにさすれば、擦り寄るようにしてくる。
 あーもーマジ可愛い。俺のご主人マジ天使。
 無表情の下で癒されながら景吾坊ちゃんが落ち着くのを待っていると、不意にポツリと声が漏れた。
「気付いたら……いなく、なってた、から」
 うんゴメンな。あの時そっと出ていったからドア付近にいたメイド以外は気付いてなくて当然だもんな。
、怒ってたからっ……きらわれたと思っ、思って……」
 ……ちょっと待て。俺いつ怒った? え、怒った覚えねーんだけど。寧ろ怒ること自体あんまりねーんだけど。
 イラッとしたことなら先週アルバートのオッサンと話してる時に一度……それ以外には思い当たる節がない。ホント俺いつ怒ってたんだよ。知らねえ。というか俺がご主人様を嫌いになるとか有り得ねえよ?
 天変地異が起こっても地球が滅亡するとしても、坊ちゃんを連れてどこかの星に脱出するくらいの意気込みはあるぞ? あくまで意気込みの話だけども。
「私は怒ってなどおりませんよ」
「でもっ、あの時……」
 俺の胸に顔を埋めていた坊ちゃんが声を上げるが、高熱のせいで頬は赤いものの具合が悪そうだ。どこかぐったりしている様子に気付いて咄嗟に言葉を制する。
「景吾様、お話は横になってからに致しましょう。薬を飲むためにも、先ずは何か口にして下さいませ」
「っ……」
 もうすぐマシューが戻ってくるはずだから、と言って宥めたが、途中で遮ったのがいけなかったのか、ご主人様の目から涙がポロポロと零れ落ちた。
 うーん、参ったな。本当に怒った覚えはないんだが。今だって普通に言ったよな、俺。寧ろ意識して優しく言ったつもりなんだけど。弁解するように心中で一人ごちるものの、眼下で涙を流している坊ちゃんは俺が怒ってると思っているらしい。
 ここまで好かれているのを喜ぶべきか、それとも主に多大な誤解を与えているらしい自分を省みるべきか。
 ……お? 丁度良いところにマシューが来たな。あんたグッジョブだぜ。
 そんなことを思いながら、俺は景吾坊ちゃんの身体を離して向かい合うように座らせた。


 ◇◇◇


 景吾様が風邪を引かれた、そう伝え聞いたのは大旦那様の部屋で朝食を並べている時だった。暫くして様の命により部屋へ伺うと、そこには私が考えていた以上に苦しそうにされている景吾様のお姿があった。医者の話によると前もって聞いていた通り風邪ということで、奥様も私も胸を撫で下ろしたが、事態は一変。
 景吾様が様のお姿が見えないことに気付き、そして常では考えられないほど酷く取り乱し始めたのだ。

「マシュー、を呼んできてくれるかしら」
「は、はい。ただ今!」
 これほど大声を出して泣く景吾様を見るのは初めてで、恥かしくも冷静さを欠いていた私は部屋からとび出し、そして廊下の先に見えた姿に思わず声を掛けた。
「ああ! 様!」
 呼び止めた先で、しかし様は驚くような素振りもなく此方まで歩みを進める。
「何事です?」
 耳に心地よく通る声は、私の取り乱しように事態を察したのか少し冷たく聞こえた。当初はこの方の視線を全身に受けると怯みそうになっていたが、様のこれは彼の為人が冷徹なわけではないのだと思う。しかし彼の醸し出す雰囲気はアルバート様をも凌ぐほどで───
「申し訳ございません。景吾様が、様をと……」
 その瞬間、私の身を襲った極寒の如き寒さに情けなくも悲鳴が漏れた。様がお怒りになられた……!!
 世話役である私の力不足に腹を立てていらっしゃるのだろうか……。様はこの短時間の間にいくつもの仕事をこなし、そして細々としたことも手を抜かず、ご自身が率先して動く方だ。きっと今もお忙しいに違いない。そんなことを考えている間も前を行く様の足が止まることはなく、あっという間に景吾様のお部屋の近くまで辿り着いた。
「……あ、ああああの、様っ」
 せめて状況の説明だけでもしておかねばと、意を決して声を掛ける。
「なんです? ああ、本当に……ここまで声が聞こえてきますね」
 ドアの前に立った様がスッと目を細められた。私たち古株の使用人と同じく、否、それ以上に景吾様を大切になさっている様のことだ、このようにお心を乱されている景吾様に心中穏やかでないのだろう。
「も、申し訳ございません!!」
 私が付いていながら、このような……。ああ、景吾様……おいたわしい。
「謝罪などする必要はありませんよ、マシュー」
 その言葉で私はハッとした。そうだ、謝っている場合ではない。ここで様に頭を下げて私は一体何を……許しを請うて何になるのだ!
 そう思い至った時、まるで私の心境を読んでいたかのように様は仰った。
「何か喉にいい飲み物を。これだけ叫ばれていたら、きっと痛めてらっしゃるでしょうから」
 そのお声は相変わらず淡々としていて、どこか冷たい印象さえ受ける。
 それでも景吾様を想っての気遣いと、そして恐らくは私への配慮も含まれているのだろう。感極まる思いを抑え、改めて様に礼をした。


 温かい飲み物と水、そして厨房で食べやすく調理した果物を受け取り、それらをカートに乗せて景吾様の部屋へと向かう。
 室内に入ると先程までの状況が嘘のように静かになっており、しかし時折聞こえてくる声は涙に濡れていた。寝室の前まで進み一言断りを入れると、近くに奥様が立っておられて内心で首を傾げる。
「奥様?」
 声を掛けてみると直ぐさま振り向いた奥様が「静かに」とジェスチャーをしてきた。目で示された先にはベッドに腰掛けた後姿の様と、向かい合うような体勢で座っていらっしゃる景吾様。その背はクッションを挟むことで支えられていた。
 様はおそらく涙を拭っているのだろう、長い指が景吾様の頬を辿って目尻に触れる。
「マシュー、こちらへ」
 気付いてらっしゃったのかと内心で驚きながらカートを運ぶ。小さく切った桃とすり下ろした林檎。甘酸っぱい匂いに誘われたのか、俯いていた景吾様が僅かに顔を上げる。しかし、奥様や私の期待も空しく再び俯いてしまわれた。
「景吾様?」
「……」
 景吾様は様の呼び掛けには答えず黙っていた。様も私達も、それを咎めることも急かすこともしない。ただ、暫くして顔を上げた景吾様は涙をぐっと堪えていてた。
 熱の所為でお辛いだろうに、それでも何か訴えたいことがあるのか様を見つめる瞳。その目を見て主の意図を察したのか、様は桃の乗った器を私に預けると景吾様の耳元に何事かを囁いた。すると景吾様がハッとした様子で顔をお上げになり、目の前にいる様を見て首をお振りになる。
様が何を仰ったのかは分からなかったが、彼はそっと幼い手をお取りになった。
「景吾様、あの夜を覚えていらっしゃいますか? あの日、景吾様は私をお選びになった。私が就くことをまだご存じでなかった貴方は、その目で見て私を選んだのです」
 その話は使用人の間でも噂になっていたので私も知っていた。確か、様がこの屋敷へ来られる予定だった日の前夜。旦那様と奥様とご一緒にオペラをお楽しみなられた日、この方は景吾坊ちゃんに連れ添っておられた。
 一目見て只者ではないと感じる存在感があるのに、不思議と惹きつけられる方だった。
「景吾様が私を選んだように、私の主も景吾様の他にはおりません。心に決めた主をどうして嫌うことが出来ましょう」

 ああ、やはりこのお方は素晴らしい。景吾様を見つめる眼差しは真剣で、表情さえ動かないものの本心なのだと分かる。そのお言葉を景吾様もしっかりと聞いているようだった。そして、最後に様は重ねた手をご自身の胸に当て、

「この身は、貴方の為にあるのですよ」


「ねえ、マシュー」
 廊下を歩きながら奥様が言う。私の前を歩く奥様の足取りは軽く、しかしながら少し落ち着かない雰囲気を感じさせる。
「なんでございましょう」
「あの2人は、真っ当な主従関係を築けるのかしら?」
「……」
 そんな質問を私にしないでくださいまし。心臓が幾つあっても足りません。そう……あの後、様は胸に当てていた手を離すと、景吾様の手の甲に口付けをなさったのだ。
 それは忠誠を誓うようでもあり、プロポーズのワンシーンのようでもあり、思わず魅入ってしまうほどに神聖な儀式のようだった。しかも景吾様は甚く感動したようで、迷わず様に抱きつかれたのである。
「真っ当な、というか純粋な、というか。いえ答えなくても結構よ。それにしても、母親の私が嫉妬するほど仲が良いのはどうなのかしら」
 奥様の言いたいことは私も理解しているしごもっともだが、流石は様といったところだろうか。何れにせよ、あれほど景吾様を想っている方が来て下さったことは喜ばしい。様は仕事も熱心な上に腕も立つ。……まあ、少々親密すぎるような気もするが、互いに信頼し合うことは大切だ。
「あーんっ、私も祥吾さんと仲良くした〜い」
「奥様……」
 またそんな事を仰って……旦那様の喜ぶことばかり言ってはなりません。
聞けば今朝も主治医の前で熱い抱擁を交わすなどという失態を犯したそうではありませんか。そして廊下をスキップするのはお止め下さい。



2012.09.25 修正 inserted by FC2 system

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