ドリーム小説ドリーム小説

 周りの空気が変わったような気がして、は閉じていた瞼を開けた。ゆっくりと瞬きをして目を慣らしているうちに、自分がいる場所が飛行機の機内であることを思い出す。いつの間にか眠っていたようだ。
 偽装死を決行してから一ヶ月ほどが経ち、昨日ようやくアメリカを出国した。行き先は勿論、亡き母の祖国、日本だ。
 これからは今までのようにデータ上ではなく、本人として、再び人生を歩み始めることになる。
 実は計画が最終段階に入る頃には移住の準備は整っていたのだが、後処理を完了させる必要があったので、この時期になったのだった。
 追跡自体は予想していたもので、の葬儀や戸籍などの事務処理も含んでいる。巧妙に情報を操作して、CIAの内部に残っている残党には自ら死亡の「事実」に辿り着いてもらったというわけだ。
 これらの過程で密かに炙り出しが行われており、疑惑が持ち上がった人物たちは伯父の管理リストに載ったことだろう。
 ──ようやくだな。
 窓の外を見る。記憶の中にある空は灰色だったが、の目の前には淡く澄んだ空が広がっていた。


未来へのリスタート



 空港に到着し、諸々の手続きを終えた時には午後を回っていた。とはいえ、概ねスケジュール通りの空の旅だ。
 十五歳の頃に一度来たきりで、十年以上ぶりに訪ねた母の故郷。はどこか感慨深い気持ちになりながら、携帯電話の電源を入れる。すると、十分ほど前に赤井からメッセージが届いていた。どうやら、もう空港に来ているらしい。
 キャリーケースを持って待ち合わせの場所に向かうと、目当ての人物は思いのほかすぐに見つかった。長めの髪と目深にかぶったニット帽、モデル並みのスタイルをした長身の男は、少し目立っていた。
 声を掛けようとした時、タイミング良く赤井の方からに気が付いた。目が合ったので片手を上げると、赤井の方も此方にやってくる。
 長旅を労う言葉を掛けてくる赤井は、相変わらずクールな男だ。いつものようにハグをしてから、ようやく落ち着いて歩き始める。
 今までの名残で自然に英語を使ってしまったが、これから日本で暮らすことを考えると不便なので、お互い日本語で話すことにした。しかし会話を始めてすぐに、ふと思い至る。
?」
「……いや、お前のことをどう呼ぶべきかと思ってな」
 赤井は変装こそしていないが、諸星大と名乗って組織に潜入している。人目のある場所では偽名で呼んだ方が良いのだろうかと思ったのだ。
 信じられないことに、そんな初歩的なことに、このタイミングで思い至ったのだった。前もって話し合っていなかったことに今更気付き、二人して苦笑いを零す。
「こういう場では変えた方が良いかもしれないな」
「分かった。なら、人目がある時には大と呼ぼう」
 組織の全体像を把握し切れていない以上、顔が割れていないメンバーもいる。どこに潜んでいるか警戒するに越したことはない。
「すまんな」
「気にするな。その手の使い分けには慣れているからな」
 戯けたつもりだったが、赤井には迷わず肯定されてしまった。
「荷物はそれだけか?」
 赤井は車のトランクを開けながらの手元を見ていた。
「他の荷物はもう家に運び込んであるんだ。移動で必要なものはボディバッグに入れてあるから、これだけ頼む」
 直前まで使っていた必要最低限の衣類や日用品を入れた荷物だ。一回り小さいタイプということもあり、トランクには余裕を持って収納することができた。
「よし。行くか」
 は頷いて、助手席に乗り込む。アメリカで赤井の車に乗った時は銃で応戦しながらのカーチェイスになったが、今日は快適なドライブを楽しめそうだ。
「車、出してくれて有難うな。助かった」
「気にするな。俺も久々にこいつを走らせることができて丁度良い」
 そう言って愛車のハンドルを操作する赤井は、本当にドライブを楽しんでいるように見えた。正確に言えば、今も常に周囲の様子に気を張っているのだが、任務中に比べればリラックスしているという感じだ。
 一足先に日本に来ていた赤井が車を出すと言ってくれたのは、がアメリカを出国する二日前のことだった。
 の両親の墓参りのこともあり、もともと会う予定だったが、丁度時間ができたからと空港まで迎えにきてくれたのだった。
 赤井は偶々そうなったと言うが、多忙な彼の予定が偶然で都合良く回ることはない。切っ掛けは偶然だったとしても、他の予定の調整をしてくれたのだろう。
 も始めは遠慮したが、以前に送った組織の情報の礼だと言われて押し切られてしまった。そもそもは、あのデータがから赤井への礼だったのだが、せっかくなので有り難く迎えを頼むことにしたのだった。
「いい風だな」
 が外を見ながら言う。日本を訪れたのは十年以上前のことになる。初めて来日した日は曇っていたが、今日は気温も丁度良く、吹き抜ける風が心地いい。
「お前が元気そうで安心した」
 不意にそんなことを言われて、思わず赤井を見る。
「何か心配を掛けるようなことがあったか?」
「ここのところ、連絡がつきにくかっただろう」
 やはりそれか。臣は心当たりに思い至る。最近、一つのことに集中しすぎて、臣にしては珍しく寝食を疎かにしていた。時刻を確認した時にようやく赤井からの着信に気付くことも二度ほどあったので、そのことだろう。
「向こうにいる間、今までが嘘のように顔を合わせていたからか、どうにも気になってな。CIAの掃除はしたようだが、まだ動いていた奴らがいただろう」
「そうだな」
 言われてみれば、も赤井と共に過ごす時間が増えたことに、すっかり慣れていたように想う。
 赤井とは、無事を確認し合った後も何度か会っていた。互いに多忙なため、特別に何かを約束して会うようなことはなかったが。用事のついでに泊まることがあった。
 は伯父を介して繋がった人物と新たに雇用関係を結んでおり、既に仕事をしている。赤井は赤井で、組織の精鋭メンバーとFBI捜査官の両立は生半可なものではない。
 そんな多忙の中で、の部屋は移動に便利な場所にあるとなると、使い道は他にもある。宿だ。連絡一つで、赤井が宿代わりに泊まっていくことがよくあった。
 も赤井の部屋に行ったことはあるが、寝具と最低限の日用品がある、まさに寝に帰るだけの部屋だった。そうなると、自ずと物が充実しているの部屋の方が便利が良い。
 それとはまた別に、気兼ねなく過ごせる場所があるというのは、心に余裕をもたらす。しかもセキュリティは万全。赤井にとっても、の部屋は良い休息場所になっているようだった。
「仕事が立て込んでいたのか?」
「いや。実は、これをもっと改良できないものかと思って」
 は時計を見せるようにして少し腕を上げた。
「……ホォー?」
「この間、秀一の腕時計を作るためにモデリングをして、データを取っただろう。そっちは後で試すとして、実は前からもう少し精度を上げられないか考えていたんだ。これまでも改良は重ねてきたが、最近発表された新技術が腕時計のホログラムに応用できないかと考え始めたら……」
「気付いたら朝だったと言うつもりか? まさか連日徹夜をしていたんじゃないだろうな」
「下手に慣れていると、平気で徹夜できるから質が悪いよな」
「お前な……」
「荷造りの時に母さんの開発資料を見て、懐かしくなってな。仕事の区切りがついたから、久しぶりに読み返したんだ。途中からは俺も一緒に作った物もあるんだが、初心に返るようで面白くてな。そのテンションで腕時計を弄り始めたら、ついつい没頭していた」
「最近なかなか繋がらなかったのは、それが理由か」
「悪い」
「お前が楽しいなら良いが、あまり根を詰めるなよ。ちゃんと休息は取れ」
 それを言われてしまうと、耳が痛い。いや、それでも普段から多忙を極めている赤井には言われたくはない小言だが。
「なんだ?」
「秀一は眠れているか?」
「おかげさまでな。お前に言われてから、前よりは寝るようになった」
「そうなのか?」
「意外そうに言うな。が俺にちゃんと休めと言ったんだぞ」
「ああ……。秀一が眠れているなら良かった」
 つい笑って言うと、些か呆れた眼差しが返ってきた。不服そうな顔だ。
「悪かったよ。これからはちゃんと寝る。必ず電話にも出る」
 言い訳をするつもりはないが、今回は赤井の腕時計を作るのが思いのほか楽しくて、羽目を外してしまったのだ。いつもは最低限の睡眠時間は確保している。
「いや、電話に関しては無理をしなくていい。俺もこれからは頻繁に連絡を取れなくなるかもしれない。も自分を優先してくれ」
「ということは、本格的に組織のメンバーとして動くのか」
「ああ。も相変わらず特殊な仕事をしているんだろう? だから俺に合わせる必要はない」
 赤井には、再会して直ぐの頃に仕事相手について簡単に説明した。
 伯父からの紹介で繋がった相手で、偽装死計画の際に証拠として使う遺体の一部を用意してくれた人物だ。正確に言えば、物を用意したのはその人物が所属している組織なのだが。許可がなければ他言できないため、赤井にも詳しくは話していない。
「どのみち、改良については地道にデータを作っていくことになるからな。……そうだ、丁度良いから腕時計をつけてみるか?」
 丁度信号が赤になったので、ボディバッグから腕時計を取り出して赤井に渡す。
「こんなに貴重なものを、素でバッグに入れてきたのか」
「変に包装しない方が空港で怪しまれずに済む。ほら、どこからどう見ても普通の腕時計だろう」
 は既に自分の腕に着けているが、腕時計を二つ所持していたからといって、危険人物にはならない。
「……良い色だな」
 赤井の意見を聞いて原型となる時計を選んだのだが、実物を見せたのは今日が初めてだった。気に入ってくれたようで一安心だ。どうせ着けるなら、好みのデザインの方が良い。
 サイズ感も丁度良く、赤井の腕にしっくりと馴染んで見えた。着け心地も良いらしく、興味深そうに時計を眺めている。
「いつ見ても不思議だな。本当に普通の腕時計に見える」
「そうだろう? 改良したおかげで、初期の頃よりも軽量化できたのも大きい。母さんと作った時にはどうしてもクリアできない課題だったからな。母さんがこれを見たら、興奮して凄いことになるぞ」
「想像に難くないな」
 赤井が穏やかな声で言う。こうして晴れやかな気持ちで両親の話ができることに、はしみじみと幸せを感じた。
「後で詳しい使い方を説明するから、良さそうなら実際に使って試してみてくれ」
「なら、使うのは墓参りの後にしよう。二人の墓前には、この姿のままで行きたい」
「それもそうだな。……ああ、そうだ。一昨日にも言ったが、車を使うなら俺の家に着くのは夜になると思うぞ。大丈夫か?」
「構わない。丸二日は予定を空けてある」
 よく空けられたなと思ったが、それなら余裕を持って動ける。今日の残り時間は墓参りに使って、明日は腕時計の調整ができそうだ。
「今日は泊まっていくよな?」
「勿論そのつもりだ」


 の両親の遺骨は、家の墓に入れられている。代々続く家の墓は元々立派なものだったが、数が多く墓所も二カ所に離れていたため、先代の本家当主がまとめ、現在は一カ所になっている。
 平日ということや、時節でもないので二人以外に人の姿はなかった。冴島家の墓は記憶通りの場所にあり、話に聞いていた以上に周辺は綺麗に掃除されていて、墓石も艶やかに磨かれている。花立にはまだ新しい生花が供えてあった。
 近くまで行くと香炉に微かに残る香りが風に乗って、ふわりと二人の鼻腔を擽る。
「この花は……イギリスにいた頃、の家の庭にも咲いていたな」
 赤井が静かに言った。まさか覚えているとは思っていなかったため、は思わず隣を見る。
「よく覚えていたな」
「沢山咲いていたからな。がよく使っていたベンチの近くに、特に密集して咲いていたのが印象的だった。おかげで、お前を思い出すときはいつもこの花も一緒に思い出したくらいだ」
「……そうだったのか?」
 初めて聞くエピソードに、知らなかったと素直に驚く。
「普段は花なんて気にしないうちの母さんも、この花のことは話題にしていた」
「メアリーさんが? ……ああでも、言われてみれば覚えがあるな」
 赤井の話を聞いているうちに、幼い頃に二人が庭で花を見ていたのを思い出した。の母親も、普段は植物にはあまり興味がない方だ。ガーデニングが得意というわけでもなかった。なにせ父親が妻に送るプレゼントに花束ではなく最新のシステムデータを選ぶくらいだ。
 そんな母親が、この花だけは特別に手入れをしていた。父は花の手入れをする妻を見るのも好きだったようで、研究に没頭している姿を見る時のように、愛情に満ちた顔で寄り添っていたのを覚えている。
「懐かしいな……。でも多分、この花はの屋敷の庭に咲いているものだ」
「分かるのか?」
「出回っているものより、花びらの色が濃い。俺が屋敷に行った時には時季外れで見られなかったが、母さんが写真を見せてくれたことがある。丁度今頃が花の盛りだと言っていた」
「そうか。なら、ようやく実物を見られたんだな」
「そうだな。……聞いていた通り、うちの庭に咲いていたものよりも鮮やかだ。ここまで綺麗だと、庭に咲き乱れる姿を見た瞬間に一目惚れしたっていう母さんの気持ちも分かる気がする」
 この鮮やかな花弁が彩る家の庭は、きっととても美しいのだろう。研究や開発が生き甲斐のようなあの母親が、イギリスで探し求めて庭に植えたほどだ。
 も一度訪れたことがある母親の生家。文化財のような大きな日本家屋で、厳かな雰囲気の門を潜った時は緊張した。石畳を行くと広い庭に続いていて、池に鯉が泳いでいるのを目にしたのは初めてだった。
 の親戚に連れられて訪ねた時は梅雨の時期で、残念ながら母の好きな花は咲いていなかったが、代わりに圧倒される数の紫陽花が見事な花を咲かせていた。
が用意した花とも、色合いが丁度良いな」
「本当は俺もこの花を持ってきたかったんだがな。でも秀一の言うとおり、よく合ってる。母さんが好きな色にして正解だった」
 よく見ると、花立の大きさの割には花の本数が少ない。もしかしたら、が訪れることを配慮してくれたのかもしれない。
 赤井と手分けをして、持ってきた花を生ける。鮮やかに咲き誇る花と、淡色のすっきりとした花の組み合わせはとても美しかった。
 脳裏に思い浮かんだ幸せな日々の記憶。それはどこまでも温かいもので、あの時のように胸の奥に傷をつける棘は、もうなかった。
 は生前の両親の姿を思い浮かべながら手を合わせ、静かに瞼を下ろす。
 ──父さん、母さん、遅くなってすまない。ようやく終わったぞ。
 志半ばに命を落とした父の計画をやり遂げることは、母の願望でもあった。体さえ万全だったなら、母が自ら伯父に協力したかったことだろう。父が望んでいたかどうかは分からない。だが、全てを片付けることでが新たな人生を歩めるなら、やってみろと言ってくれるような気がする。
 冥福を祈り、顔を上げる。長い旅を終えて、ようやく帰ってこられたような心地だ。隣で手を合わせている赤井も顔を上げる。なにを話したのだろうかと少し気になったが、野暮なことは聞かないでおこう。
 立ち上がって改めて眺めると、外柵のそばに花びらが落ちていた。ついでに拾っておこうと花びらをつまむ。その時、ふと墓誌に目がとまった。
 ──そういえば、父さんの名前は偽名なんだよな……。
 の父親は身元を偽っていた。それは死後も続いている。父方の家には本当の名前が記された墓があるが、母親が亡くなるまではイギリスに。つまり父親はずっと母親の近くにいたのだ。そんな二人だから、は母親を看取ったとき、二人を同じ墓に入れてあげたいと考えたのである。
 日本に興味を持っていた父も、愛する妻と共に眠るのならば喜んでくれると想った。伯父がそれを許したのも、母を愛していた父の想いを尊重してくれたからだ。の親族も快く迎え入れてくれ、こうして丁重に納骨されている。
「どうした?」
 墓誌を見つめていると、赤井が声を掛けてきた。
「ここに父さんの名前が彫ってあるだろう? 偽名のままなんだよなと、改めて思ってな」
 指で静かになぞる。もう随分と年月が経ったが、それでも彫られた凹凸が指に伝わる。
「……そうだったな。おやじさんは最後まで、この名前で生きたんだったな」
 家族を守るために選んだ人生。最後の最後まで、家族を想っていた。父親は偽名で一生過ごすことを負担に思うどころか、これ以上無いほどに妻と息子を愛して、幸せに生きていたのが父親らしい。大きな人だった。父親は今でも、にとって大きな存在だ。
「随分と遅くなったが……こうやって報告ができて良かった」
「そうだな。お前はきっと、二人の自慢の息子だ」
 両親を知っている赤井に言われると、いっそう感慨深い心地になる。
「そうなれているなら、良かった」
 日本で暮らすことも心の中で報告しておいた。昔それを口にした時は、頭の片隅で一つの選択肢として考えただけだったが、まさか本当に日本にくることになるとは思っていなかった。の心境が変わったのは、母の遺産を受け継いだ時だ。
 母方の親族は約束通りが成人したタイミングでに渡してくれた。の事情が事情なので、研究室など管理が必要なものは引き続き力になってくれ、とても有り難かった。今後はがそれらの管理を継ぐことになる。
「秀一、今日は付き合ってくれて有難うな」
 は立ち上がって、改めて感謝を伝えた。
「それは俺の台詞だろう。おじさんとおばさんに手を合わせることができて良かった」
「きっと二人も喜んでると思うぞ」
 生きていたら、両親の顔には深い皺が刻まれるような年齢だ。も赤井もすっかり大人になった。
 あったかもしれない未来を想像するのも、今では穏やかな気持ちで受け入れられる。だからこそ、記憶の中で年を取ることのない二人の仲睦まじい姿というのも、なかなか悪くないと思えた。
 ──また来る。父さんと母さんも、元気で。
 しばしの別れの言葉を告げて、赤井と共にその場を離れる。数歩歩いた時、風が二筋、撫でるように柔らかく吹き抜けていった。
「──……」
 なぜだか無性に、胸にこみ上げてくる感覚に襲われた。それが懐かしさだと気付いた瞬間、は咄嗟に口を引き結んだ。そうしないと、間抜けなほどに頬が緩んでしまいそうだったのだ。


 腕時計は案じていた不備も特になく、試作品にしては及第点。細かな調整はするつもりだが、今すぐにでも充分に使える出来だ。
 そういうわけで、は容姿を変えた赤井の運転で新居に向かって夜のドライブを楽しむことにした。ずっと運転してもらっていることに申し訳なさはあったが、赤井は楽しんでいるようなので甘えることにした。
「そういえば、秀一も日本に住むんだよな?」
 今更だが、気になったので聞いてみる。隣で運転している赤井も、今更だなと笑って口を開いた。
「ああ。こっちに来る前に向こうでの仕事の引き継ぎは済ませた。勿論、必要な連絡は取り合うがな。これからは潜入に集中する」
「なら、暫くは日本で暮らすのか」
「奴らの闇を暴くとなると、片手間にはできんからな……。より深く入り込むには、闇に染まるのも一つの手段だ」
 淡々とした口調だが、目つきは鋭い。獲物の急所に狙いを定めるような鋭い眼光は、闇の中の真実を突き止めてやるという強い意志が宿っていた。
「秀一、いつでも頼れよ」
「……?」
 赤井は一瞬、意表を突かれたような表情をしたが、すぐに苦笑いのような色が滲んだ。
「心強すぎて、本当に頼りっぱなしになりそうだな」
「それでいいと言ってる。俺は案外、即戦力になるぞ」
 驕りではなく、協力できるだけの能力は持っているつもりだ。本音をそのまま伝えれば、赤井は微かに笑った。
「分かっている。潜入も対人での対処もできる、情報操作や収集能力は折り紙付きだ。ジェイムズがFBIに入って欲しいと本音を零していたぞ」
「それは初耳だな」
「……だからこそ、俺は慎重にいきたい。も慎重にと言っていただろう」
「水臭いことを言うなよ。というか、あれは俺のために言ったものじゃなかったと思うんだが……」
 ハニートラップの話をしていた時ではなかったか。思い出しながら一人言のように言うを、赤井が横目に見つめる。確かに警戒するに越したことはないのだが、としては納得できない部分もあった。
「そんなに心配か?」
「心配というのは少し違うかもしれんが……。せっかく自由になったお前の人生を、他でもないこの俺が組織との接点を作って、万が一にも再び戻すような真似はしたくないからな」
「秀一……」
 赤井の言葉を聞きながら、分かってはいたが思ってた以上に深刻だったと思い知る。
「なあ、秀一。俺にその手の遠慮はするだけ無駄だ。知っているだろう?」
「お前に遠慮しているつもりはない」
 だからこそ言っているのだという赤井に、は納得できないと首をひねる。
「なら何だ?」
「万が一にも奴らがに目をつけたら、命がけで糸を断ち切った意味が無くなる。がヘマをするとは思ってない。その辺りの見極めを徹底しているのは知っている。……だが、それでも俺は最大限に警戒する」
 組織の危険性を知っているからこそ。真剣な眼差しがを射貫く。決して譲らないという意思が伝わってきて、は苦笑いを浮かべた。
「こうなると秀一は頑固だな」
「それが性分だ」
「まったく……」
 が組織について本気で調べ上げれば、時間がかかったとしても、赤井が欲しい情報を得られるかもしれない。だが、赤井はそれを優先するつもりはないようだ。
「なんでも調べてやるのに」
「組織が相手でなければな」
「対象がなんであっても構わないが、それはないだろう?」
 やれやれと肩を竦めて、大げさに嘆息する。
「秀一の言いたいことは分かる。俺のことを想って言っていることもな。気持ちも嬉しい。これは本当だ」
 裏の顔を探るということは、向こうも此方の存在を知りえる可能性が高くなる。
 として一度目をつけられ、組織に勧誘までされている。万が一にも、死亡したはずのが同一人物だと知られたら、非常に面倒な事態になりかねない。それを危惧しているのはも重々理解しているつもりだ。
「だからこそ、そんな秀一のためにも力になりたいんだ」
 分かるだろう? と問う。
「まあな」
 頷く赤井は、それでもどこか一歩引いているように見える。いつになく頑なな様子に、はどうするか考えていた件を話すことにした。
「秀一の考えは分かった。なら、俺もこれだけ伝えておく」
 が考えている以上に、赤井が組織との接触に対して強い懸念を抱いていると知った今、前もって話しておいた方がよさそうだ。
 想定外のことが起きたとき、赤井が自責の念にかられることが万が一にも無いように。
 真剣な空気を感じ取った赤井は、周囲を確認してブレーキを踏んだ。そのまま速度を落としながら路肩に車を停める。
「話してくれ」
 先を促され、はゆっくりと口を開いた。
「俺から積極的に組織の闇を突くことはなくても、監視として今も奴らの動きは追い続けている」
「……なんだと?」
「あくまでも監視だ。奴らの目立った動きを上に報告しているだけで、こっちから手を出すことはない。俺が任されている仕事のうちの一つだ。そこに私情はない」
 赤井の眉間に皺が寄る。しかしそれは怒りではなく、を案じる気持ちから来るものだと分かっている。現に、短い溜息のあとに向けられた目が、「まったくお前は」と言っている。
「だから、秀一に頼まれなくても組織の動きは追うことになるし、上が必要と判断すれば探ることもある。ただ、なにぶん今契約しているところは規模が大きくてな。個人で動いていた時とは違って、組織側も俺の存在には気付けないだろう」
「……おい、それはそれで危険だろう。お前は一体どうやってそいつらと繋がっているんだ。FBIのデータにもそれらしい組織が見当たらなかったんだぞ」
「調べたのか?」
「無駄な労力に終わったがな」
 苦く笑う赤井は、それでも先程までとは違って、どこかすっきりとした顔をしていた。
「お前はつくづく、怪しげな組織と縁のあるやつだな」
「否定はしない。……そういうわけで。俺が言っているのは仕事上でのものだと思ってくれていい。許可が下りた情報に限定されるが、FBIに渡せる情報もあるということだ」
「そういうことか。ようやく合点がいった」
 赤井もと同じで、いつになく食い下がるに疑問を抱いていたと言う。それを聞いて、漸く赤井の頑なな態度が理解できた。互いに探り合うあまり、うまくはまりきれなかったようだ。
「他言できないというのは気になるが……CIAの内部にいる奴らのように、お前を狙っている輩ではないんだな?」
「ああ。誓ってそれはない」
「……」
「秀一に言われるまでもなく、俺も無理に動く気は更々ないぞ。もし俺に何かあったとしても……いや、そんな事態が起こったら、先ずこちら側の都合だろうな。作戦の一部である可能性が高い。秀一とは無関係に起こるものだと思っていてくれ」
 の言説明を聞いた赤井は、ハンドルに置いていた手を離すと、一度考えるように目を閉じた。そうして一呼吸置いたあと、ようやくを見る。
「了解した」
「必要な時は、本当に言ってくれよ。お前たちが探っている組織に限らず、その手の組織の動きは俺の仕事の範囲だからな」
「ああ。の力が必要な時は、強引にでも巻き込んでやるさ」
「言ったな?」
 本音を言えば、ちょっとしたことでも頼ってくれて構わないのだが、それは赤井も承知の上なのだろう。もFBIのやり方はできるだけ尊重したい。捜査をしているのはFBIだ。彼らに,──赤井のやり方に任せようと思い直した。
 赤井自身が言ったように、積極的に巻き込んでも構わない。巻き込むかもしれない、などと考える必要はないのだ。それすら丸ごと、上手くやってみせる。
「絶対だぞ」
 念を押すと、赤井は真っ直ぐにの目を見て頷いた。対向車線を通り過ぎる車のライトが、二人の顔を照らしていく。
「約束する」
 まるで誓うように告げられた言葉に、それでもは念を押す。
「俺もお前と同じ気持ちだってこと、忘れるなよ」
「当然だ」
 偽装死の件でが赤井を頼った時、赤井はのためなら共犯者になると言った。リスクを承知の上で、を助けるためならと言って協力してくれた。それは逆の立場であっても同じだと伝えたかった。自分も赤井のために力を尽くすことに、一切迷いはないのだと。
 はしっかりと頷いて、赤井の言葉を全て受け取った。

 互いに納得したところで再び夜の道に車を走らせる。日本の地を踏んでから、あっという間に数時間が経った。新居まではもうすぐだ。
「もう一つ、いいか?」
「なんでも言え。何度だって誓ってやる」
「気障だな、秀一は」
 思わず笑う。大きな通りを過ぎると住宅街が見え始め、やがての新居がある通りに入った。ナビゲーションのモニターにも示されている。丁度良いタイミングだ。
「これからも、偶には俺の家に寄れよ。秀一なら大歓迎だ」
 腕時計のメンテナンスがあるため、実際、定期的に来てもらうことにはなるのだが。としては、特に用がなくても、アメリカにいた頃のように気軽に立ち寄れる場所でありたかった。
 赤井は静かに車の速度を落とし、門の傍に停める。を見てくる目はどこか楽しげで、口元にはほんの微かに笑みが乗っていた。
「必ずくる」



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2022.08.04 inserted by FC2 system

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